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ジョセフ・ラズの価値論、義務論、幸福論【『価値があるとはどのようなことか』】

ジョセフ・ラズの『価値があるとはどのようなことか』を読んで、重要な議論がなされているように思えたので、個人的にポイントだと思ったところをまとめてみたい。



価値とは何か

ラズによれば、「価値」とは、私たちの行為や選択を理解可能にする、あるいは正当化するものである。

例えば、モナリザには価値がある、と言った場合、それは私たちがその絵を鑑賞したり慈しんだりすることが、理解可能であり、正当化可能であるということである。

あるいは、私にとってイチゴよりもミカンの方が価値がある、と言った場合、それは私がイチゴを食べることではなくミカンを食べることが、理解可能であるということである。


価値において肝要なのはその理解可能性である。理解可能でなければ価値だとは言えない。そのことを理解するには、むしろ価値が理解不可能であるという状況を想定してみれば良いだろう。

ラズは理解不可能な価値判断の例として次のようなものを挙げている。

Aはある映画を見にいった。そして友人に、あれはとても良い映画だったよと感想を伝える。しかし、友人は怪訝に思う。なぜなら、Aは昨日もその映画を見にいって、しかもとてもつまらない映画だと酷評していたからだ。友人は昨日と今日とで何か変化があったのかと尋ねるだろう。そこで、Aは、いいや何も変わりはなかったけど、昨日はひどい映画で、今日は良い映画だったんだ、と言う。

このケースにおけるAの価値判断は全く理解不可能であり、そもそもAの言う「良い」とか「ひどい」とかいう言葉が何らかの価値判断を表しているとも言えない。なぜなら、昨日見たか、今日見たか、という単なる時間の違いで価値判断が変わってしまっているからだ。

つまり、ある事物の価値は、究極的には、特定の時間や場所、人物に言及することなく説明できるはずなのだ。モナリザの価値は、それが近世のイタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれたものであることに言及せずとも説明可能であり、だからこそ、私たちはその価値を理解できるのである。


このように価値は特定の時間・場所・人物に言及せずとも説明可能であるということを、ラズは価値の普遍性と呼ぶ。上記の説明からわかるように、この意味の価値の普遍性は、価値の理解可能性と表裏一体のものであり、おおよそ「価値」と呼ばれるもの全てが持つ一般的性質である。

この意味での価値の普遍性は、価値の社会依存性と矛盾しない。すなわち、仮に価値がある社会の内部にしか成立し得ないものであったとしても、それが価値であるならば、理解可能なはずであり、特定の時間・場所・人物に言及せずとも説明可能であるはずであるということだ。


道具的価値、本来的価値とそれ自体で価値あるもの

ラズは、価値を道具的価値、本来的価値、それ自体で価値あるもの、の3つに分ける。

道具的価値とは、ある事物を、他の何かにとって価値があるから、価値あるものにしているような価値のことである。

例えば、スマホはそれ自体で価値があるわけではないが、私にとって役立つから価値があるわけである。


本来的価値とは、ある事物を、それが端的に価値あるものであるから、何かにとって価値のあるものにしているような価値のことである。

例えば、絵画は、それが端的に価値あるものであるから、私たちにとって価値があるのであり、その逆ではない。

ただしラズは、私たちと適切な関わりを持たない本来的価値は潜在的な価値に過ぎない、とも言っている。絵画の例で言えば、その価値を私たちが見出し、鑑賞したり慈しんだりするということがなければ、その絵画の価値はまだ潜在的なものに過ぎないということだ。

ただし、仮に潜在的なものであったとしても、その絵画に価値があることには変わりがない。あくまでも、その絵画自体に価値があり、それを私たちが見出すのである。


つまり、私たちがその絵画に価値があると思っているから、その絵画に価値があることになる、という社会構成主義的な考え方をラズは取らず、あくまでも、価値自体は絵画に内属するという実在論的な考え方をとっていると言える。

しかし、その価値が実現するのは、私たちがその事物と適切に関わりあうときだけであり、ラズは、この関わり合いの次元に個人の嗜好や社会による影響の余地があると考えている。


最後に、それ自体で価値があるものとは、それが価値あるものであることが、他の何かが価値あるものであることを条件としていないような価値のことである。

道具的価値も本来的価値も、結局、それは何かにとって価値あるものでなければならない。だとしたら、その価値の連鎖の終着点がどこかに存在するはずである。それ自体で価値あるものとは、そのような考察からその存在が導かれる。


価値づける者の価値

ラズは、価値づける者、典型的には人間が、それ自体で価値あるものだと主張する。

何かが、それ自体で価値あるものであると言うにはどうすれば良いだろうか。それは次の二つを示せば十分である。

  1. それにとって価値があるようなものが存在する

  2. それにとって1のものが価値あるものであることは、前者が他のものの価値に寄与することを条件としていない。

これを踏まえた上で、価値づける者がそれ自体で価値あるものであることは以下のように示される。


本来的な価値は、価値ある者によって適切な仕方で関与されるべく存在し、そうされることでその価値が実現してその人にとっての価値となる。

そして、価値あるものを評価し、その価値を認めること=価値づけることは、本来的な価値と適切な仕方で関わることの一部である。

故に、もしその実現にあたって価値づける者による承認が必要であるような本来的な価値があるならば、その価値づける者にとって価値があるようなものが存在すると言える。(第1条件)


価値づける者は、価値の連鎖の終着点にあると言える。例えば、芸術やスポーツ、ファッション、美食といった本来的価値を楽しむことが、それらを価値づける者が他の何かにとって有用であることとは無関係であることは自明である。(第2条件)


価値を尊重する、価値と関わる

ラズは、価値あるものに対する適切な反応の仕方を以下の3つに分ける

  1. 価値の承認

  2. 価値あるものの保存

  3. 価値あるものとの適切な関与

3について。本来的価値についての説明で述べたように、価値は、それと適切に関わりあうことで初めて実現する。価値あるものとの適切な関与とはそのような関わり合いのことであり、例えば、絵画であればそれを鑑賞するだとか、書物であれば読むだとか、そう言う活動のことである。


ラズが「価値を尊重する」と言うとき、それはその価値の実現の可能性を保障するということであり、それは上記における1と2に当たる。

そして、ラズは、ある対象に価値があるという事実から、その対象の価値が実現されることが可能とされるべきである、つまりその価値を尊重すべきである、という定言的な義務が導かれる、と主張する。

これは定言的な義務であるから、私たちの嗜好や社会ごとの多様性には影響されない。

このことと、先に示した、価値づける者である人間にはそれ自体で価値があるということから、人々を尊重することは普遍的で定言的な義務であると言える。


価値を承認し保護することが定言的な義務である一方で、そのように承認・保護された価値の中から、どの価値と関わりあうかは個々人の選択に委ねられる。

そして、生きる上でさまざまな価値に適切に関与してそれらを実現することでこそ、人々の生は充実し、美徳は表れ、その生は祝福されたものとなるのである

ただし、その関わり合いも、他の価値を尊重しなければならないという定言的な義務の制約を受けねばならない。


まとめ

ラズは、価値を事物に内属する客観的なものだと捉えた上で、でもそれが実現するためには、人々との適切な関わり合いが必要である、と考えており、これは価値についての実在論と相対主義・構築主義とのバランスを取ろうとする見方である。

そして、どの価値と関わるか、どのような関わり合い方をするかという次元で個人の嗜好や社会ごとの多様性の余地を認める一方で、価値を尊重することは、個人の嗜好や社会の多様性に依存しない定言的な義務であるとする

他者を尊重しなければならないという規範を維持しつつも、なんとか個人による嗜好や社会ごとの多様性も組み込もうとする価値の理論の構築を試みていると言えるだろう。


最後に

ラズの価値論は、人々を尊重すべきであることを示す義務論や、価値との関わり合いが人生を充実させるという幸福論の基礎づけとしては、本書だけでは物足りないところがあるように思えた。しかし、それらを「価値」という一貫した見通しのもとに整理して論じているという意味では、とても参考になると思う。

一部の議論にはあまり納得できないものもあった(特に、ある事物に価値があるということから、それを尊重すべきだという定言的義務を導き出すところ)ので、ラズの他の著作も読んで検討してみたいものだ。