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からだ・健康・医療(My favorite notes)

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からだ・健康・医療をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事を集めまし…
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#呼吸瞑想

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第1258回「まるごとが仏」

先日は花園大学での講義の為に上洛してきました。 講義の前日に、妙心寺の新管長にご就任なされた霧隠軒山川宗玄老師にお目にかかりました。 花園大学の母体は妙心寺でありますので、大学の総長として新しい妙心寺の管長さまに表敬訪問し、ご挨拶申し上げたのでした。 そのあと禅文化研究所でYouTubeの撮影を行っていました。 更にその晩には花園禅塾に行って、禅塾の塾生達に坐禅をするための体操をあれこれと教えてきました。 長年どうしたら坐禅がよりよく坐れるか、慣れない人には、どうしたら苦痛無く坐れるか、あれこれと研究し工夫してきましたので、お若い方にもお伝えしようという思いであります。 一時間ほどの講習ですが、はじめにはやはり足を念入りに調えるように時間をとりました。 やはり、いろいろ学んできて分かったのは足が大事だということです。 足の指も大事ですし、足の裏も重要ですし、足首も柔らかくしておかないといけません。 テニスボールを学生さんたちの分を持っていって、はじめにはテニスボールを踏むということを行いました。 まず拇指球でテニスボールを踏むようにするのです。 右足から行いました。 右の膝を少し曲げて、足でテニスボールを踏むぞという意志を持って踏みつけるのです。 テニスボールは弾力性がありますので、かなり強く踏みしめても大丈夫です。 それから次に小指球でテニスボールを踏みしめます。 拇指球、小指球というのは、それぞれ親指、小指の付け根でありますが、付け根といっても土踏まずの上の方あたりであります。 それから拇指球と小指球の間を踏みしめます。 そうして土踏まず全体をテニスボールをころころ転がすようにして刺激を与えます。 そして踵と土踏まずの境目あたりを踏みしめるようにします。 このところはとても気持ちの良いものです。 そしてここに重心を置くようにして立つとまっすぐ立てるようになります。 そうしてしっかり足で踏むという感覚を身に付けてもらってから、坐って足首を回します。 足と手で握手するように足の指の間に手の指を入れて、大きく回してゆきます。 反対回しもします。 それから足の指を一本一本回してゆきます。 反対回しもします。 そうしますと足の指の感覚がしっかりしてきます。 両手の親指で足の裏を押して刺激します。 指の間、指の付け根、土踏まずから踵まで押して刺激します。 そして、最後には拳を作って足の裏をトントン叩いて刺激します。 そこで立ち上がってもらうと、右の足は、しっかり大地を踏みしめて立つという感じがするものです。 足の裏から根が生えたようにどっしりとして安定します。 まだ何もワークをしていない左足はただ床の上に乗っかっているだけの感じです。 左右の違いを感じてもらいます。 また足の色も変わるのです。 右の足の方が血行がよくなっているのが分かります。 そこで、今度は左の足も同じようにテニスボールを踏むところから始めます。 ひととおり行ってもう一度立ち上がってもらうと、今度は両足がしっかり地面を踏んでいる感じがするのです。 そこで更にまず右足で足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すつもりでしっかり床を押すようにしてもらいます。 更に左足も足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すように力を入れてゆきます。 そうしますと両足で床を押して立つことができるようになります。 その時足で床を押す力が、そのまま床から腰を立てる力となってはたらくのです。 腰を無理に入れようとするとどうしても腰が張ったりしてしまいます。 足で地面を押す力で、腰を立ち上げるようにすると、最も無理なく自然に立ち上がるのです。 頭までスッとまっすぐに立っている感じがつかめるのです。 これが腰を立てる要領となります。 それから股関節をほぐしてゆく運動をあれこれと行ってから皆で最後少し坐ってみました。 坐りやすくなったとか、落ち着いた感じがするという声をいただきました。 いつも坐禅の前に行っておいて欲しい運動もお伝えしておきました。 幸い今の禅塾の塾頭さんは親切にご指導してくださっているので、真向法を教えたり、いつも坐禅の前に体操の時間をとってくださっているようです。 やはりこうして体をほぐしてから坐ることが大事だと感じています。 股関節を柔らかくしてから足を組まないと、膝や足首を無理にひねって壊してしまうことがあるのです。 その次の日が大学の講義でありました。 禅とこころ、今回は禅僧の逸話に学ぶというシリーズです。 第二回目は唐代の禅僧の逸話を紹介しました。 単に逸話を紹介するのではなく、そこから禅の思想が学べるように工夫しています。 唐代の禅僧でも馬祖禅師、百丈禅師、黄檗禅師、臨済禅師の四名を中心に学びました。 そして番外に懶瓚和尚、布袋和尚、蜆子和尚を紹介しました。 馬祖禅師の教えの中核はなんといっても即心是仏です。 「馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」 ということに他なりません。 それから黄檗禅師の 「祖師ダルマは西方から来られて、一切の人間はそのままそっくり仏であると直示なされた。 そのことをいま君は知らずに、凡心に拘われ聖心にかかずらって、おのれの外を駆けずり廻り、あいも変らず心を見失っている。 だからこそ、そういう君に対して、〈心そのものが仏だ〉と説かれたわけだ。ちらりとでも妄心が起これば、たちまち地獄に落ちることになる。」 という『伝心法要』の言葉も紹介しました。 原文には「一切の人は全体是れ仏なり」とあります。 心だけとり出すわけにはゆきません。 この体も含めて全体まるごとが仏だと示されているのです。 そのことを実感するためにもこの体をしっかりと自覚して、この体まるごとが仏だと体感することが大事であります。 禅塾での体操も単に坐禅の為というよりも、足で地面を踏んで立っている、この体まるごと仏である自覚になって欲しいという願いを持っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1215回「ゆったり心を落ち着けるには」

四月の最後の日曜日に、一般の方の布薩を開催しました。 いつも第二日曜日に行うのですが、四月は第二日曜日の午後から講演が入っていたので、月の終わりになってしまいました。 今回の布薩では、礼拝を丁寧に行うことを意識してみました。 全体で、二十七回の礼拝を繰り返しますが、それを呼吸に合わせて行うようにしてみました。 基本的に、体を屈める、下に向くときには息を吐いてゆき、体を起す、起き上がるときに吸っていくのです。 これを一つ一つの動作に合わせて、息を吐いて、腰を折り曲げて、息を吸って起き上がり、息を吐いて頭を床につけ、吸いながら起き上がるというように行ったのでした。 そうしますと、よい効果が得られたようで、何度も参加されている方からもとても体も心も調ったという感想をいただきました。 二十代のお若い方で初めて参加された方もいらっしゃって、心が調ったという感想をいただきました。 戒の言葉を現代語訳で唱えながら、礼拝するので、言葉の意味を深く考えられたという感想もございました。 ホトカミの吉田亮さんと、ホトカミの方もご一緒にご参加してくださっていました。 その次の日は都内でイス坐禅の会でありました。 いつもは平日の六時半から八時半まで行っていますが、四月は私の予定がこんでしまって、平日に行う事ができなかったのでした。 そこで唯一空いていた二十九日のお昼一時半から三時半まで行ったのでした。 貸し会議室なのですが、平日だといろんな会議などがたくさん入って大勢の人が出入りしています。 ところが今回は連休中でもあって、会議などもほとんどなく閑散としていました。 大燈国師というお方は、京の四条五条の往来はげしい橋の上でも坐禅できないといけないと仰っていますが、多くの人が行き交う中でも静かに坐ることができないとならないのですが、やはり人間、静かな方が落ち着くものであります。 イス坐禅の会も昨年から始めてもう十一回になります。 毎回、あれこれと工夫してきました。 紙風船を使ったり、テニスボール、ゴルフボールを使ったり、ひもトレを行ってみたり、体を整える為に学んだことをあれこれとやってきました。 いろいろやってみて、イス坐禅の要領を四つにまとめることができました。 一、首と肩の調整 二、足の裏、足で踏む感覚 三、呼吸筋を調整 四、腰を立てる この四つなのです。 今や多くの人はデスクワークが多かったり、スマートフォンを見たりで、首が前になり、肩も巻き肩になりがちであります。 このまま坐っても深い呼吸ができません。 そこでまず肩や首をほぐして、安定させるようにします。 それから、足で地面を押して立つ、そのために足の裏を刺激してゆきます。 そうして呼吸をするのは肺ですから肺を、上下、左右、前後ろとそれぞれ広げるように運動をします。 そうして、腰椎五番を立てる体操をして坐ると心地よく坐れるものです。 今回はタオルを使って、肩や首をほぐすようにしてみました。 それから白隠禅師が画に描かれている狐の手を使ったワークも試みてみました。 手の指と肩が連動しているところから、狐の手をして肩甲骨を動かすという体操を行ってみました。 これは肩甲骨がほぐれてよかったというお声をいただいたので、成功でした。 今回も五十分かけて体を調えて、十分坐るということになりました。 そのあと、三十分ほと話をしました。 今回は、臨済録にある 「道流、心法無形、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては論談し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。」という一節を取り上げました。 岩波文庫『臨済録』にある入矢先生の現代語訳では、 「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹見したならば、いかなる境界にあってもそのまま解脱だ。」となっています。 心というと、体の中におさまっているように思いがちですが、もっと広く大きいものです。 その広い心が仏心です。 朝比奈老師は、「人は佛心のなかに生まれ、佛心のなかに生き、佛心のなかで息をひきとるのだ。 生まれる前も佛心、生きているあいだも佛心、死んだ後も佛心、その尊い佛心とは一秒時も離れない」と仰っています。 その仏心に気がつくために坐禅をします。 「坐禅をするということは、人はそういう尊い心のあることを信じて、心を静かに統一して、心が落着くところに落着けば、自然に雑念妄想は遠のいてしまう。 狭い心もだんだん広くなり、ザワザワしていた心も落着き、暗い心も明るくなり、カサカサしていた心もうるおいが出てくる。」 と朝比奈老師は説かれていますが、そのようにゆったり心を落ち着けるのはいろんな条件を調えないといけません。 まず土台となるのは、戒に基づいた暮らしです。 その上で食事や睡眠を調えて、更に姿勢を調えます。 そんな短い話をして後半の坐禅では白隠禅師の内観の法と軟酥の法を実践しました。 先日平林寺の老師に教わった方法で行ってみました。 これがとてもよかったという感想をいただきました。 やはり昔から伝わっている方法は素晴らしいのです。 初めて参加したという方からは、腰が立つという感覚がよく分かりましたという感想もいただきました。 おちついてしっかり肺を広げて呼吸するイメージができ気持ちよく坐れたという感想もいただきました。 印象的だったのは、イス坐禅の会を終えて片付けをしていると、ある方が私に言ってくれた言葉です。 その方はご職業柄、移動の多い仕事らしく、腰痛などで苦労してたそうですが、イス坐禅の坐り方でとても移動が楽になったと、晴れやかなお顔で報告してくれたのでした。 その通り、長時間の移動でも腰が楽になるのです。 今回は円覚寺で修行して今やお寺の住職になっている方も参加されました。 上半身が柔らかくなると、呼吸が楽になり、重心が下がって心地よく坐れると感じたと感想をいただきました。 熱心な和尚様でいらっしゃいます。 イス坐禅も多くの方に弘めてゆきたいと改めて思いました。 ただ、いただいた感想の中には、布薩にしろ、イス坐禅にしろ、申し込もうと思ってもすぐに満席になるらしく、たいへんだという意見がありました。 これは頭の痛い問題であります。 なんとか工夫をしてみます。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1210回「心を調えるには」

修行道場で、一週間にわたって、『天台小止観』の内容について講義をしていました。 実際に坐禅をするのに、いろいろな方法が説かれていて、初心の者にはたすかります。 また長年修行していても参考になるものです。 最終日には、呼吸と心の調え方を講義していました。 呼吸について『天台小止観』には次のように説かれています。 大東出版社から出ている『天台小止観』にある関口真大先生の現代語訳を参照します。 「初めて坐禅に入るときに息を調える方法について述べよう。 呼吸にはおよそつぎのような四種類の相がある。 一に風、二に喘、三に気、四に息という。」 とあります。 四種類に分けて説かれています。 「このなか前の三種は調わない相で、後の一種だけがよく調った相である。」 というので、「風、喘、気」という三つはまだ十分調っていない状態なのです。 それぞれ次のように解説されています。 「ところで風といわれるのは、坐禅のとき、鼻のなかの息に出入の音があるのが、それである。 喘の相とは、坐禅のとき、呼吸に音はしないけれども、しかも息の出入に結滞があってなめらかでないのを喘という。 気の相とは、坐禅のとき、音もなく、また結滞もないけれども、しかも出入がなめらかでないのを、気という。 息の相といわれるのは、声もなく、結滞もなく、粗くもなく、出入が綿々として、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて安穏に、よい気持ちになる。 これが息である。」 という四つなのであります。 「風といわれる状態でいると気が散る。 喘といわれる状態の呼吸をつづけていると心にもむすぼれができやすい。 気といわれる状態の呼吸をつづけていると、やがて疲れがでる。 息といわれる状態の呼吸をつづけていれば、心がおちついてやがて定まってくる。 つまり風・喘・気の三種の相があるときは、これを調わない呼吸といい、坐禅にはまた患のもとともなる。心も定まりにくい。」 と説かれています。 そこでどうしたら調うのかというと、 「もしこれらを調えようとするなら、まさにつぎのような三種の方法を試みるがよい。 一には、精神を体の下のほうにおちつけて、そこに精神を集結する。 第二には、身体を寛放してみる。 第三には、気があまねく全身の毛孔から出入していて、それを障礙るものがないと観想することである。 もしその心を静かにしていれば息も微微然となり、息が調えば、患は生じないし、その心も定まりやすい。 これをわれわれが初めに坐禅をするときに息を調える方法とする。」 と丁寧に書いてくださっています。 それから次には心を調えることです。 これは 「初めに坐禅をするときに心を調えるということには、およそ二つの意味がある。 一には、乱れがちな心をおさえて、外の余分なことにむかってかけだしたりしないようにすること、二には、まさに沈・浮・寛・急をほどよく所を得させることである。」 と書かれていて、自分の心が「沈・浮・寛・急」のどの状態になるのかを観察して、それぞれに応じて調えてゆくのであります。 まず「沈といわれる状況は、坐禅をしていて、心がうす暗く、記憶もはっきりせず、頭がどうしても低く垂れがちになることがある。 これを沈という。 そういうときは、精神を鼻の頭に集中し、心をつねに一つのことのなかに集注して分散させないようにする。これが沈を治す方法である。」 と書かれています。 気持ちが沈むような時には、心を上の方に向けるのです。 私などは、少し目もはっきりと開けて坐るように心がけています。 また坐布というお尻のところを少し高めにするということも気をつけたりしています。 気持ちが沈む時というのもあるものです。 それから次は 「浮というのは、坐禅をしていて心が好んでゆれ動き、体もまた落付かないで、ついほかのことを考えたりしてしまうことである。 これを浮という。 そういうときには、心を下方に向けておちつけ、精神を臍に集注し、乱れがちな心を制するようにする。 心が定まっておちつけば、心は安静になる。 要点をあげてこれをいえば、沈ならず浮ならず、これ心が調った様子である。」 ということです。 心が落ち着かないような時には、へそ下の方に意識を向けるのです。 それから、「急」というのは、「坐禅のときには坐禅のなかに心のはたらきの全体をあつめて、それによって禅定に入ろうと努力することに原因する。 それ故に気が上方に向かいがちで、胸憶が急に痛むようなことがある」というのです。 「そんなときには、一度その心をとき放した上に、気はみな流れ下ると想うがよい。 それだけで思いは自然になおる。」 と説かれています。 それから「心が寛である相とは、心志がだらけ、体が斜めにのめり込むような気持ちがしたり、あるいは口から涎が流れたり、あるときは心が暗くなったりする。」 時であります。 だらけるとか、心がゆるんでしまうときです。 「そのようなときにはまさに姿勢をきちんとしなおし心をひきしめ、心を一つのものごとのなかに集注し、身体をしやんとする。 それで治る。」 と説かれています。 白隠禅師なども「心火逆上してのぼせあがり、肺が衰え、両脚は氷雪の中に漬けたように冷え切」る状態になっていたので、気を下に流すために、内観の法や軟酥の法を用いたのだと思うのであります。 よく心を調えておいて、それから臨済禅の場合は、公案の修行に入ってゆくのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1207回「坐禅の呼吸」

朝比奈宗源老師が坐禅について語られた言葉に、 「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。 これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。 掘れば出ると思うから骨も折れる。 だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。 そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。 道具もいる。努力もいる。 坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。」 とあります。 仏心を具えていながら、そのことに気がついていないのが私たちです。 気がつく為にはどうしたらよいか、やはり坐禅がよろしいのです。 その坐禅をするにはまず姿勢を正すことから始まります。 朝比奈老師は 「姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。 腰を立てないとどんなにしても力が入らん。」 と仰る通り、まず腰を立てることであります。 森信三先生は立腰と説かれました。 腰骨を立てることなのです。 それから更に朝比奈老師は、 「そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。 それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。 そこで無字なら無字を拈提して坐る。」 と説かれています。 おへそから指の幅四本分下くらいのところです。 しかも体の表面ではなく内部です。 これが丹田です。 次に呼吸ですが、朝比奈老師は 「息はーよくこういう質問をする人があるから言うが、息は吸うときに力を入れるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。 どうもこれも色々やってみたが、経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くとき鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。 つまり何だな、上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気になる。 だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。」 と説いておられます。 これは岡田虎二郎先生が説かれたのと通じるのであります。 岡田虎二郎先生は、その著『岡田式静坐法』の中で正しい呼吸として、 息を吐く時下腹部(臍下)に気を張り、自然に力のこもるようにと説かれています。 その結果息を吐く時下腹膨れ堅くなり、力満ちて張り切るようになるというのです。 吐く息は、緩くして長いのです。 吸う時は、空気が胸に満ちて、胸は自然に膨脹し、胸が膨れるとき臍下は軽微に収弛を見ると説いています。 呼気吸気のときに、重心は臍下に安定して気力が充実しているというのです。 吸う時に腹を膨らまし、吐く時に腹を収縮させるのとは違うというのです。 息を吐くときお腹をへこませずに、圧をお腹の外にかけるように意識してお腹周りを「固く」させるのが腹圧呼吸と言われますが、それに通じます。 朝比奈老師は、 「そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。 呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。 この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。 つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」 と説かれていて、これは呼吸をも手放すことを言っています。 『長生きしたければ呼吸筋を鍛えなさい』という本で、医学博士の本間生夫先生は、次のように書かれています。 「人間の体の機能を正常に保つうえで、じつは二酸化炭素は酸素よりも重要な役割を果たしている面もあるのです。 ホメオスタシスのなかでも、特に重要なのが酸性・アルカリ性のバランスです。 人間の体はpH7.4の弱アルカリ性(pH 7、0が中性) で、 この数値をキープすることが、体調を正常に保つために非常に大切です。酸性に傾いても強いアルカリ性になっても、コンディションを崩しやすくなります。 このバランスを保つために、非常に重要な役割を果たしているのが二酸化炭素です。 血液中に二酸化炭素がたくさんあると体は酸性に傾き、その逆に少ない場合はアルカリ性になっていきます。」 と二酸化炭素の重要さを説いていて、そこから更に、 「二酸化炭素の調節システムは、この「無意識に行なわれる代謝性呼吸」のときのみに作動して、「意識して行なう随意呼吸」のときには作動しないメカニズムになっているのです。 ですから、深呼吸のような「意識して行なう呼吸」をずっと続けていると、二酸化炭素の調節システムが作動せず、かえって体内バランスを崩すことになってしまうわけです。 繰り返しますが、1、2回の深呼吸をたまに行なう分にはまったく問題ありません。 しかし、わたしたちの体をいつも通り一定に維持してくれているのは、あくまで「無意識に行なわれている呼吸」です。」 というように「無意識に行われている呼吸」の重要さを説いてくれています。 意識的に呼吸を調えて、調っていったならば、呼吸を手放して無意識の呼吸に任せるのがよろしいかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1184回「同調の効果、その恐ろしさ」

先日甲野陽紀先生にお越しいただいて講座を行ってもらいました。 甲野先生の講座は、毎回驚きの連続であります。 今回もどんな発見があるのか、とても楽しみにしていました。 終わってみると、やはりというか、予想以上の驚きと感動でありました。 三時間があっという間に終わったという感じであります。 新しく修行道場に入った者も加わっているので、「一動作一注意」という基本から学び直しました。 これはどういうことかというと、『身体は「わたし」を映す間鏡である』という甲野先生の本には、 「「一動作一注意」とは、「ある動きをするときには一つのことに注意を向けることが大切」という意味です。 たとえば「立つ」という動作でも、指先なら指先という一つに注意を向けて立つ場合と、いくつものことへ注意を向けて立つ場合では、明らかに身体の安定感が変わってきます。」 と書かれています。 実際に、この指先と指先を軽く触れさせて立っていると、横から押しても微動だにしなくなるのです。 これを初めて教わった時は驚きでした。 今回も参加者はそれぞれ二人一組になって実験しました。 今度は指先を合わさずに、指先だけに注意を向けるのです。 指先にだけ注意を向けていると、同じように体は安定して、横から全体重をかけて押しても微動だにしなくなります。 また同じように指先と指先を合わせていても、なにか別のことを考えると体は途端に崩れてしまいます。 これが一動作一注意ということなのです。 さて、今回は更に同調効果ということを習いました。 同調というのは、よくもらい泣きするような時がありますが、あのように同調してしまうのです。 一人の者をAとして、指先に注意を向けて立ってもらうと、とても安定して押しても動きません。 もう一人の者は、そのAにだけ注意を向けて立ってもらうと、やはり身体が安定して押しても動かないのです。 Aに同調するのです。 ところがAが、指先に注意を向けずにだらっとしていると、身体は不安定になってしまいますが、同時にAに注意を向けているもう一人の者も身体は崩れてしまうというのです。 これが同調ということなのです。 更に驚いたことがありました。 Aが一つのことに注意を向けずに、ただだらっとして立っています。 当然身体は不安定なのです。 もう一人の者は、Aを反面教師としてAのようにはならないぞと思って立っていても身体は崩れてしまっているのです。 「あのようになってはいけない」と思っただけで、すでにAに注意を向けてしまっているので、Aに同調しているというのです。 こういうことを、三人一組になって実験したのですが、実にその通りなのです。 ではだらっとした人の影響を受けないようにするにはどうしたらいいかというと、別にところに注意を向けるなりして、Aへの注意を断ってしまうことなのだそうです。 人は誰かに注意を向けただけで影響を受けてしまうということなのです。 これは気をつけないといけないと思いました。 修行道場でも姿勢の崩れてしまっている者がいると、姿勢が崩れているなと思っただけで、もうその悪い姿勢の影響を受けてしまっていることになります。 あの人はこの頃たるんでいるなと思っただけで、すでに影響を受けてしまっているのです。 これは恐ろしいと思いました。 また良い人の影響も受けるので、これは有り難いことであります。 竹を使ってのワークもまたおもしろいものでした。 二人で一本の竹を持っています。両端をそれぞれ持っているのです。 二人がそれぞれ、自分の目的地を決めて歩こうとして、それを三人目の者が竹の真ん中を持って止めようとします。 ふたりで竹を持って進もうとしても目的地がバラバラであれば、簡単に止められるのです。 ところが、その二人のうち一人が明確な目的地をもってそこへ進もうとして、もう一人の者は、その進もうとしている人にだけ注意を向けていると、今度は第三者が止めようとしても全く止められなくなって、どんどん進んでいくことができるのです。 ほんとうに力がいらないのであります。 それから更に一人の者に横になってもらって、それを四人で持ち上げるということを実験しました。 四人が、肩のあたり、腰から膝の辺りに左右それぞれ手を入れて持ち上げます。 それぞれがそれぞれの思いで持ち上げようとすると、持ち上げられなくはないのですが、とても重く感じます。 そこでリーダーを一人決めます。 リーダーは持ち上げるという明確な意志をもって持ち上げようとします。 他の三人は、そのリーダーにだけ注意を向けていると、実にこれが軽々と持ち上がるのです。 ほとんど力を入れていないのに持ち上がるのです。 これもリーダーとなる人の影響を受けるということです。 リーダーがリズム感をよくて軽々と持ち上げると、みなそれに同調して軽々と上がるのです。 たいへんそうに持ち上げるリーダーだと、みんなたいへんそうに同調してしまうということです。 修行道場では重たい木材などを持ち上げることがありますので、これは早速応用できそうだと思いました。 同調は恐ろしいものです。 たとえで甲野先生は、最近の体験を話してくれました。 電車の中で一人大声を出して叫ぶような者がいて、電車の中の全員の注意がその人に向けられて、みんな同調してしまったそうです。 甲野先生はすぐに注意を断って別のことに注意を向けたそうです。 気をつけてみると、その電車の中で若者がイヤホンをつけて音楽を楽しんでいたそうです。 イヤホンをつけて音楽を大きな音量で聴いているので、その大声の人に注意は向かないのです。 その若者は心地よさそうに音楽を聴いていますから、その若者に注意を向けるとよい同調が起きるのだというのでした。 かくして前半は同調についていろんな実験をして学びました。 後半は手首と足首を学びました。 中指と腕をまっすぐのままにしていようと思うとしっかりするということでした。 この「まっすぐのままにしていよう」と思うのがいいので、「まっすぐを保つ」とか「まっすぐに固定する」とか「まっすぐに決める」というと、固定してしまって崩れてしまうのでした。 「まっすぐのまま」というとある程度の曖昧さがあるのですが、それがかえってしっかりとするのだそうです。 保つや固定するというと、かたくなってしまい、かたいと崩れやすいのです。 ままにすると、しっかりするけど柔らかさがあるので、かえって強くなるのです。 更に足の中指を足先とまっすぐのままにすると、実に安定して立てることも学んだのでした。 そのように我々修行道場では集団で生活していますので、今回学んだ同調の効果とその恐ろしさについては大いに参考になることでした。 そしてまた学ぶ楽しさを実感したのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1180回「養生の基本は五つ」

先日、一般社団法人 統合医療チームJIN の皆さんと久しぶりにお目にかかることができました。 諏訪中央病院に勤めておられる須田万勢先生を中心にしている皆さんです。 須田先生が注目されている「養生」とは何か、統合医療チームJINのホームページには、 「「養生」を一言で表せば、「与えられた命を最大限に輝かせて生きるために、いかに生活するか」です。 養生ルネッサンスというセミナーを始められたのですが、それは須田先生ご自身が体調を崩された経験があるからだそうです。 医師として十二分にはたらきながらも、ホームページの記述によると、「寝ても疲れが取れない身体を、濃いコーヒーで無理やり覚醒させて朝のカンファレンスに臨み、ストレスを抱えては医局のお菓子をほおばり、昼食後はコーヒーでも対処できないような眠気と必死に格闘する。しょっちゅう風邪をひく、ふと気づけば大量に生えてきた白髪、足には水虫。 私はある時呆然として思いました。俺は、このままでいいのか。」 そこで、須田先生は「私は自分で自分の身体を復活させるために、人知れず勉強を重ねました。 東洋医学の専門家を訪ねてアドバイスを受け、また学生時代の東洋医学研究会の知識を動員して生活に活かしました。Amazonで健康関連の本や食事関連の本を読み漁り、そのエビデンス(科学的根拠)を調べました。」 と書かれています。 「そうして一年後、私ははっきりと「元気」になっていました」という体験をなされました。 「では、なぜ私は元気になれたのでしょう?」と須田先生はホームページで問い掛けています。 「それは、結局「生活」だったのです。病気になれば病院に行けば良いかもしれません。 でも「病気でないけど何かおかしい」人は病院に行っても相手にされません。医療の前に生活がある。当たり前のことです。 生活の中でも、食事、運動(ここには姿勢、歩行、丹田の鍛え方なども含みます)、呼吸、睡眠、思考という5要素は、自分の意志で変えられ、また変えることによる効果が高いものです。 この5要素に対するアプローチを、養生の基本に据えました。」 というのが、須田先生が「養生」に注目された経緯なのです。 更にホームページには 「ルネッサンスとは、本来、「再生」「復活」を意味します。 「養生ルネッサンス」は我々の造語ですが、現代において養生法を学び、実践することで、自分の中に眠っていたエネルギーが再活性化し、生命が復活するのを感じてほしいと思ってこう名付けました」 と書かれています。 社団の目的として、 1. 人間の可能性を引き出す「養生」を提案し、世界に発信する。 2. 人間に関わるあらゆる職種が、垣根を超えて知恵を出し合うための共通基盤を創生し、古今東西の医療の橋渡しをする。 3. 統合医療を医療のリベラルアーツと定義し、自由と責任を持ってその発展に寄与する。 ということがホームページにも掲げられています。 そうして二〇一九年の四月に第一回のルネッサンス講座が開かれたのでした。 その年の八月に、私も頼まれて講義をしたのでした。 須田先生を中心に、鍼灸師、指圧師、歯科医などの方々が集まって、病気にならないように「養生」について学んでいたのでした。 二〇一九年八月に都内において、「養生ルネッサンス講座」今こそ学ぶ本当の禅という題で講演したのでした。 この題は、主催者が付けたもので私の付けた題ではありませんでした。 そこではじめに申し上げました。 「だいだい自分で本当の禅などと言っているところにまず本当の禅はありませんでしょう。 本物は、自らを本物とはいいません。」 「もし本当の禅とはどんなものかと問われたらこんな会場にいないで早く家に帰って電気を消して眠ることでしょうね」 と話し始めたことを覚えています。 夜の七時から九時までの講座だったのでした。 養生ルネッサンスでは 養生の五本柱として、 一、食事 二、整体 三、呼吸 四、睡眠 五、思考 を揚げられています。 『天台小止観』には調五事ということが説かれています。 以前、小欄でも紹介したことがあります。 調食=適度な食事をとること 調眠=適度な睡眠をとること 調身=身体を調えること 調息=呼吸を調えること 調心=心を調えること の五つです。 令和の時代の若い医師たちが辿り着いた結論と、天台智顗という六世紀の僧が説いたこととほとんど一致しているというのは実に興味深いものです。 その年の秋には、円覚寺で実際の坐禅実習も行ったのでした。 二時間の講座のうち、一時間は座学で、坐禅は何の為にするのかなど、講義をしました。 次の一時間は、実習で、私が坐禅指導を行いました。 普段、円覚寺で私が直接坐禅指導をする機会は、ほとんどでありません。 その会に集まる方々は、社会の第一線で働いている人たちですので、ただ単に足を組んで、痛いのを我慢してじっと辛抱するだけの坐禅では、あまり意味が無いかと思って、私なりに工夫してみて、禅を「行住坐臥」に分けて実習してみたのでした。 まず、はじめに五分ほど、足首をほぐし、足の裏を自分でマッサージして足の裏の感覚を取り戻してもらうようにしました。 そして、「行」は、歩くことを行いました。 十五分ほど、歩行禅を行いました。前半は足の裏の感覚だけに意識し集中して歩くことを行い、次に呼吸に合わせて、息を吸って足を上げ、息を吐いて足を下ろすということに意識にしてゆっくり歩くことを行いました。 終わった後の感想では、この歩行禅が良かったという声が多かったのでした。 次の「住」は、立って行う「立禅」を十分間行いました。 仙骨の運動をして姿勢を正して、ただ「立つ」禅です。 その時に足の裏を意識して、足の裏から息を吸って吐く「足心呼吸」を実習しました。 それから「坐」、はじめの「坐」は椅子禅を実習しました。 椅子に坐ることがほとんどの皆さんですので、椅子に坐って腰を立てて、呼吸法を実習しました。これを約十分間行いました。 そして「臥」、仰臥禅、横になって、床に身をゆだねて、全身を脱力させるように、ガイダンスを行いながら、静かに十分間横臥しました。 それらを終えて最後の十分間で、座布団に坐って、丹田呼吸を行いました。 いわゆる「坐禅」です。 身体の中にたまった、様々な感情や知識や、悪いものをすべて息と共に吐き出し、きれいな空気をお腹までいっぱいに吸い込むという呼吸を実習しました。 調べてみると、そんなことが記録に残っています。 もう五年前の事でありますが、そんな頃から、やはりイス坐禅を取り入れていたのでした。 そののちすぐにコロナ禍となってしまい、しばらくセミナーなどは開催できずにいたのでした。 今後どのような取り組みをしてゆくのかいろいろ考えを拝聴しました。 また出来ることがあればお手伝いさせてもらいたいものです。 養生の基本が、一、食事。二、整体。三、呼吸。四、睡眠。五、思考の五つ、それは調五事、即ち調食、調眠、調身、調息、調心に通じるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺