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【 自叙伝 】自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅

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自叙伝を綴ろうと思ったそもそもの動機は、うまく通じ合えない両親に対し、如何に私自身の「心の風景」を伝えるか…と言うただその一点だった。当初は手紙程度で納めようと考えていたものが、… もっと読む
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#私は誰か

(1-1)初めての高野山【 45歳の自叙伝 2016 】

初めての高野山  初めて高野山を訪れたのは湾岸戦争のあった19歳の九月だった。当時バイト先で嫌な事があって一人で十日間ほど紀伊半島を旅していた時だった。  橋本の駅舎で野宿をし、朝一番の電車で高野山を目指す。まぁ、せっかく近くに寄ったのだから、母が常々口にする高野山と奥の院を見てみよう…と、深い動機もなくほとんどが観光気分だった。  南海の各駅停車は霧に包まれ、急な勾配とカーブをキュルキュルと車輪を鳴らして上って行った。ケーブルカーで高野山駅に着く頃にはだんだんとその

(5-9)現実を見据えて② 劣等感と業【 45歳の自叙伝 2016 】

仙台からの帰り道  その頃、市川さんからビジネスの話を頂いていた。仙台からの帰途、夜も0時近かった車内、市川さんの提案について父と話をすると、母は「あんた、何かお金の掛かるようなことをするんじゃないんだろうね、大丈夫なのその話!」と、母自身に迷惑が及ぶのを嫌がるように父と私を疑った。  当時、会社の厳しい状況に喘いでいた私は、母のリアクションをとても身勝手なものに感じてしまい、思わず「市川さんだって、協力したくてしている話なんだよ!(自分たちが)しっかりしていれば済む話な

(5-8)現実を見据えて① 弱さと傲慢【 45歳の自叙伝 2016 】

厳しい経営  父が倒れてから私たちは真理を学ぶ会ではなく、パドマワールドとして活動を始めた。もちろん会社としても、その活動に対しての決算となった。しかし、それまで父頼みで成り立っていた収支の現実は、大した解決策もないまま、ただ厳しくなる一方だった。それは父がヒーリングに復帰してからも続き、当然ながら状況分析をせずにはいられなかった。  思い返してみると、過去そうであったような、父のカリスマ性を活かした「場」作りを私は出来ずにいた…と言うより、一連の父の出来事によって、これ

(5-7)原因を自分に求める【 45歳の自叙伝 2016 】

都内のファミレスで  佐藤さんが亡くなられて、ちょうど一年後ぐらいだったか、珍しく岡松くんと両親との四人で食事をしたことがあった。父は本格的に各地を回り始めていて、動きとしてはだいぶ回復してきているようだった。青山の会場を終え、とあるファミリーレストランで久しぶりに岡松くんと会うと、父は最新と自負するヒーリングのテクニックや、読み解いた症状の因果関係をしきりに話し始めた。  父の話を聞いていて、いつもの癖が出ているな…と私は思い始めた。それは分析の甘さが招く、安易な法則の

(5-6)参考資料~真の解放のために①【 45歳の自叙伝 2016 】

武士道の淵源(仏教についての記述)  新渡戸稲造の「武士道」に、仏教と瞑想の記述がある。文末、新しき天と新しき地とに覚醒する…と、さらりと述べられているが、この風景こそが、我々個々の現象世界に対する智慧である。 ◇  ◇  ◇ ラマナ・マハリシの教え  真我の探求にあたって「ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)」は外すことの出来ない書籍と思われる。この訳文は山尾三省氏によるものだが、訳文にある「自己」について、母は「真我」と訳されるべきだと言っていた。確かに、そ

(5-5)佐藤さんの宿題【 45歳の自叙伝 2016 】

心が救われるために  ヒーリングに対して、揺らいだ気持ちを抱きながらでも、声を掛けてもらえる会場や個人の方がいると、やはり通すことを止めることは出来なかった。そうしなければ自分たちが干上がってしまうからだった。東北へ行くときは低価格の高速バスを利用したが、その道中は有意義な勉強時間となっていた。佐藤さんが亡くなってからと言うもの、その「心」が救われるために必要なものを求める思索のなかで、あらためて、仏教の唯識思想関連の書物を読み返していった。理由は「心」を紐解くことだった。