見出し画像

私にとってのドローイングについてとかとか

今日からドローイングの通販を始めました。そこで、私にとっての、ドローイングの位置付けについてツイートしようかと思ったのですが、ありゃりゃ、そういえば私にはnoteがあったじゃない、と思い出したので、折角なので、ペインティングと比べながら、noteにまとめていこうと思います。よろしくお願いいたします。

始めにお断りしておきますが、「私にとっての」ドローイングです。すべてのドローイングにあてはまることではありません。ご注意くださいませ。

だいぶだいぶ昔、私は、

「ドローイングは、新しい表現を探す場所」

と教わったことがあります。私はその言葉がとても好きです。なぜなら、そうしていきたいと思ったからです。ちなみに、私が描くドローイングは、いつもこんな感じです。

ちなみに、ペインティングはこんな感じ。

見た目的に解りやすいかと思います。ペラ紙がドローイングで、パネルにしっかり絵の具で描いているのがペインティングです。じゃあ手法が違うだけで、やっていることは同じなのかというと、描いているときの意識は結構逆だなあと、最近考えています。

私の中にある、絵にのこしたい全体のテーマは、最初はそうあるようにしか居られない、という自分を投影したようなものでした。実際、そうだったように思います。しかし、生活や体調、環境の変化から、考え方が変わり、絵が私からいい意味で距離をおき始めたように感じています。今までの作品が、そのまま私過ぎたのだと思います。
そこで気がついたのは、「距離感」です。絵を観た人と絵の距離、そして描いた私と絵との距離。これが心地よいこと、これがとても大事なのではないかと感じました。これが、2018年中頃~今日までの、私の絵の、ドローイング、ペインティング、全体で考えているテーマです。

これを踏まえて、私の中のドローイングの意識についての話に戻ります。ドローイングするときは、「新しい表現を探す」、ということは勿論大前提なのですが、他にも空気を含んだような画面、迷いのない線、余白の取り方に気を付けています。描くものは人物が多いですが、山とか花とか、2019年頃から仲間入りしてきました。これについては、題は忘れてしまいましたが、以前まとめてnoteに投稿した記憶があります。簡単に言うと、環境の変化です。私が描くドローイングは、自身の生活環境がそのまま出ている気がします。

人物のみのドローイング例

自然を含ませたドローイング例

画面の意識はそんな感じなのですが、気持ちの面で言うと、日記とか、記録みたいに蓄積されていくものに近いです。なので、見返したりしたり、絵について考えていたり、描いていたりすると、すっと、ああ、もう私の中に入ったんだなあと思うことがあります。そうして、ペインティングという形にして、残したくなります。

私にとっての、ドローイングについては、概ねこんな感じです。最も私の思考に近いものだと思います。恥ずかしながら。

親戚の子どもにプレゼントした走れる鶴

おいおい、なんにもわかってねえなあとか、全然違うだろ、と色々とご意見反論はあると思います。でも、もし私のこのズルズル長いnoteを読んでくれて、何か考えるきっかけになっていたら嬉しいです。是非お話ししましょう、聞いてみたいです。

人が何かするということは、事の大小に関わらず、そういうものだということは理解しています。(反論や否定)しかし、多種多様な意見が丸裸で跋扈する社会、そういうものからの自衛も必要です。
ただ、私は、世界が平和になればいいと本気で思っている人間です。なので、このnoteに限らず、へー、そんな意見もあるんだ、と受け止められる懐の大きい人が多いといいなあと思います。人のすることに対して、否定から入るというのは、寂しいし、狭いことだと思うからです。

話が脱線しました。

私のドローイングについては、そんな感じです。記録とか探すとか、安定感は無いかもしれません。でも、だからこそおもしろさがあるのだと、それがドローイングのおもしろさだと、私は思います。

機会を見付けて、今度はペインティングについてもお話しできればなあと思います。

ここまでお付き合いありがとうございました。よくぞ読んでくれました。読んでくれたあなた、きっと優しいことが降り注ぐでしょう。ハピネス!