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私は日本のお笑いが好きではない。


私は日本のお笑いが好きではない。
特に漫才はあまり面白いと思う芸人・ネタがない。

それはすごく自分で不思議だったし、なぜなのかわからなかった。
それはただ単に好みの問題だ、とか思うかもしれないがちょっと今日そのモヤモヤの理由が見えた気がしたので共有したい。

まず漫才の構造を説明すると、人が当たり前だと思うこと、
スキーマに相反することを行うことで笑いをとる。(傾向が強い)
つまり、普通ではないストーリーを作ることで笑いに持っていく。

でも私の場合、なぜ普通じゃないことをするのが面白いのかもわからなかったし、その人がそういう考え方や行動をしているのはその人なりの理由がるのにと漫才だとわかっていても否定したくなる。

だから面白くない。
友人にとてつもないお笑い好きな人がいて、よくおすすめのネタを共有されるがだいたい10個うち1つ面白いと思うのがあるかないかぐらいだ。そして感想を伝えると「めい子はわかりやすいネタが好きだからね」と言われる。

ただ今日わかった。私は「わかりやすい」ネタが好きで面白いと感じるのではなく、「新しいアイディア、価値観」が興味深く、おもしろと思うのだ。だからこそ、ロバートみたく全く新しい人物像を作り上げるクリエイターズファイルだったり文房具クッキングはマジでは面白いし、ノンスタイルみたいにカッコよくないとわかっている前提でかっこいいことを言って石田が気持ちわるがる、というくだりも面白い。
つまりストーリーのコンテンツを変えず、ただ英訳しただけでも面白いネタが私はすきだ。

これはお笑いに限らず日常生活においても言えることだと思う。
人は人と違うことしている人を見つけるとまず笑う。
それが明らかに名誉のあること、ものすごい発見、大勢の人が評価しているものでないと。

私は高校生のとき、まだユーチューバーというのが流行っていない4年前に、ユーチューブを始めた。
当時は海外のbeuty guruに憧れて、自分でもやってみようと思ったのがきっかけだった。

自分で古着を紹介したり、メイクをしたり。
拙いカメラワークと編集技術で自分の世界を創出した。

しかしある時クラスの男子に”ファッションモンスター”とヤジを飛ばされた。そしてなぜか芸能人でもない人間が自分の世界を世に出していることを非常に面白がられた。

確かに自分は特別可愛いわけでもなんでもない。
それをわかっていてやっている。

ただ「一般人が世に自分の価値観を紹介する」ということが他人からしたら普通じゃないことであり、
ましてや当時はテレビが主流であった映像という手段を用いて、芸能人であるかのように自分の世界を売りにすることは「面白い」に値することになってしまった。

当時やっていたブログも特定され、メイクをした自撮りなどをたくさんあげていたため、誹謗中傷の対象になった。

何か新しいことを始めた、高校3年生の私には重すぎた。

それからYouTubeを少し閉鎖し、英語で始めた。これならもう彼らの管轄外になるだろうと。
ただただ逃げただけだったが、こうでもしないと今までユーチューブをつづけてこれなかっただろう。

今でこそ世間的にユーチューバーも一つん人生のあり方として、行動として認められ、特別可愛い・カッコよくなくても動画をあげたからと言って笑いの対象になることはないが。

こんなように、日本では普通でないことをおもしろ可笑しく捉える傾向が強い。そして漫才やコントを通じて、そのような価値観が「再生産」され、植えつけられていく。

別に私は日本のお笑いはダメだ。とかそう言うことが言いたいのではない。
日本のお笑いの歴史はずっと深いだろうし、それを知らずに好き、嫌いを言うのはいけないと思う。
ただ、
予想外のことをしたり、言ったりすることが「ボケ」として捉えられそれを正すために「ツッコミ」が存在し、お笑いが成立する世界はどうしても好きになれないし、面白いと思わない。

だから私はきっと一生笑えないネタがたくさんあると思う。


私は不思議ちゃんとか変人とか言われることがしばしばあるが、自分で変なこと、不思議なことをやっている自覚はない。
きっと人々の「スキーマ」外のことよくやるから人々の「価値観」からするとそう思えるだけで、そこに笑いを生み出す必要があるのだろうか。

私はいたって普通に生きている。普通に行動している。

自分の世界に当てはめて、考えないで欲しい。

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