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はちみつミルクティーとシフォンケーキ


紅茶の香りを愉しむためのこの喫茶店に香水の香りはそぐわない。ランテルディもジャドールもこの日だけは留守番をしてもらう。

扉を開けるとカランコロンという鈴の音と共に茶葉の香りが鼻腔を擽る。この店のシンボルといえよう大階段を上り席に着く。予約を入れた訳ではないが、いつもわたしを出迎えてくれる角の席。わたしの特等席、と勝手に呼んでいる。

《はちみつミルクティーとシフォンケーキをお願いします》

紅茶の香りが立ち込める店内で一冊の本を開く。この瞬間が好きだ。別に重い荷物を持っていた訳でも鎧を纏っていた訳でもないのに一瞬で解放された気分になる。ふと見下ろすとカウンターの上に鎮座したケーキスタンド。その上にはキラキラと輝くふわふわのシルエット。温かいミルクティーが注がれる音に耳を澄ませてページを捲る。

《お待たせいたしました》

その声に顔をあげると不意に目が合う甘く優しい紅茶の香り。顔が綻ぶのをぐっと堪えてじっと見つめ合う。紅茶の奥に広がるはちみつの優しさを鼻から目一杯吸い込む。そしてひとくち。今度は堪えきれなかった顔の綻び。待ちきれずフォークを入れて口に運ぶ。口の中に広がる絹が織り込まれたような食感と紅茶の風味に思わず目を瞑り味覚を研ぎ澄ませる。続けてスッと鼻に抜けるスパイスが紅茶とふわふわの生地と手を取り合う。

この味を、香りを、食感を、優しさを求めてきたのよ。

なんて、心の中で。本の一節に登場したマダムのような口調で呟いて、名残惜しい最後のひとくちを頬張った。



ほっとひと息つきたいときに。
茶葉たちのワルツを堪能したいときに。
《紅茶の店しゅん》にて




厄介な感染症のアイツが蔓延っていたあのとき。静かな空間も素敵だと気がついたあのとき。そんな忙しない彼が落ち着いてきた今日この頃。わたしと同じくこの日この場所に居合わせた皆が心を通い合わせたかのように、静かな時間を大切にしながらもそれぞれの時間を愉しみながら言葉を交わす瞬間が、まるで雪が解けてあちらこちらで花が咲き始めた春のように感じられて嬉しくて。春の訪れを感じた立春の日のこと。



2024.02.04

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