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アップルパイの誘惑


昔ながらの街並みが好き。新しく建設されるマンション。空まで伸びる高層ビル。AIと共存していく社会のなかであの頃から変わらない場所。忙しなく動かされる足がだんだんとスピードを弱めていく。路地を曲がり少し歩を進めると奥に見える望楼にトレードマークの赤い屋根。大正時代の面影を残した目的地は、大正という時代を生きていないわたしのことですら、懐かしいという気持ちにさせてくれる。

引き戸を開けて手前に並ぶ雑貨たちに心を奪われる。《欧州アンチック市》という名の催しが開かれており、なんて素敵なタイミングで足を運ぶことができたのだろう、と真っ赤なロンドン塔が描かれたエノクウェッジウッドを眺める。

はっとした。今回のお目当てはこれじゃない。

先日古書店で一冊の本と出会った。あの日から林檎を食べたいという欲に駆られていた。わたしの脳内や胃袋は我儘なことに、林檎そのものではなく、林檎の良さを最大限に活かした何かを欲していた。

今日は林檎づくしでいこう、とメニュー表を眺めながら悩んだようなフリをしてアップルパイとリンゴジュースを注文する。

カウンター席のいちばん奥。1年以上も日が空いてしまったがここがわたしの定位置。

足繁く通っていた頃。わたしはほとんどごはんが喉を通らなかった。唯一完食することができたのがここの《りんごのガレット》だった。採れる林檎によって食感も甘酸っぱさも違う、個性のある林檎たちによって織りなされた味わいが堪らなく好きだった。結局、仕事を辞めて足が遠のいてしまった。

あれから1年以上あの頃のわたしを満たしてくれた味はどこにも見当たらない。胸のざわつきを感じ始めたときわたしの林檎づくしのプレートが運ばれてきた。

目の前にトレイが置かれた瞬間、スパイスと林檎の香りが押し寄せ、先ほどまであんなに思い出に浸っていたはずのアップルパイは跡形もなく消えた。フォークを入れるとサクッという音を立ててパイ生地がほろほろとこぼれる。慎重にならなくては、と注意深く切り分けたひとくち。林檎の酸味とグラニュー糖の甘味が程よくマッチして、いつの間にかふたくちめを口に運んでいた。あっという間に平らげたアップルパイ。


奥の方に見え覚えのある方が忙しなく働いていた。わたしが毎日のように注文した《あのこ》を作ってくれていた店員さん。忙しそうな雰囲気を感じて《あのこ》の行方は聞けなかった。

アンティークの品々を眺めて帰路に着く。

きっと《あのこ》の行方はまだ知らない方が良い。あの頃は毎日が闘いのようだった。きっと《あのこ》に逢えていたらあの頃のように注文していただろう。繰り返された辛い日々はそのままの形で冷凍保存しておきたい。それを懐かしさや美しさなんていう綺麗な思い出に書き換えたくはない。ストレスがありふれた社会のなかで、乗り越えたら綺麗な思い出に変換されるなんていう慰めは、あの頃のわたしには通用しないって嫌というほど実感したから。武勇伝のように語られる経験者の話も洗脳のように繰り返した大丈夫も、あの頃のわたしには嘘や偽りでしかなかったから。だから《あのこ》とは逢えずじまいでいい、と思いたい。

頑張らなかったわたしを認める。
頑張っているわたしを褒める。

本に導かれてアップルパイに誘われて選んだ今日の選択が過去と今と未来のわたしを愛することにどうかどうか繋がりますように。


古き良き街並みと人の温かさを見守り続けた場所。
これからも変わらずにいてほしい《紺屋町番屋》にて。


わたしの脳はどうやら暦どおり正常に動いているらしい。甘い甘いチョコレートのことは頭からすとんと抜け落ちてしまっていた癖に。ギリシャ神話で愛と美の女神アフロディーテの象徴である林檎を今日という日に食べたくなるなんて!命懸けで愛の尊さを説いたヴァレンティヌスのように、愛に溢れる世界になることを願って。
ハッピーバレンタイン。


2024.02.14

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