夏の雲も、海も

この夏の言葉を何か自分なりに残しておきたくて。何を書こうか考えている。

今年の夏の日常のこと、まだほとんど書けていない。

私の大好きだったnoteの書き手さんも、たまにスキを残してくれるが、更新頻度はどんどんなくなり、その人特有の視線から紡がれる美しい文章もついに読めなくなってしまった。

わかっている、誰かの為に文章を書いたり、残すわけじゃないってこと。それは少なくとも私に向けられてるものじゃないってことも。

空っぽの白いページを見て私は時々さみしくなる。
それでも、その人との交わした言葉の記憶が私の中で空っぽになったわけではないし、その人がどこかで笑ってこの夏を過ごしているんだと、それならいいやと、ささやかな想いがこみあげた。

私が文章を書けない時期もあったから、きっとそういうことかもしれないし、単純にここで文章を書く必要がなくなってしまったからかもしれない。

昔、自分にとって楽しかった時代が、誰かにとっては黒歴史の時代だった…、と後から聞いたことがあった。
その人にとっては、自分の好きに生きれない、親の期待を生きたつまらない時期をちょうどアルバイトの私と出会い、仕事をただ一緒にした、それだけのことだった。

今その人はイキイキと自分の思い描く今を生きれているのだろうか。
私と出逢ったことで、ほんの少しでも楽しかったと思ってもらえたこともあるのだろうか。

その人はひんやりとした不思議な無言の空気感や、経営者としてライオンのような威厳や達観した鋭いまなざしをいつも心に秘めているような人だった。

だから、わたしからあれこれ聞いたことはない。

その人が今どんな人生を生きてたとしても、少なくとも、私の人生で一瞬でもその人に出逢えて関われた時間はかけがえのないものに変わりなく、その事実だけあれば良いと感じた。

最近は夜中に雷がすごくて、夜は窓のカーテンを大きく開けて、稲光を見つめながら眠りについたりした。

近くに雷が落ちた音も聞こえたり、心配して窓の方に駆け寄ると暗いガラス越しに青白く浮かんだ向かいのマンションが見えた。

世界がどーなってしまったんだろう…と思うことも増えた。
連日流れるニュースは、まるで日本じゃないみたいで、ウイルスも濁流も、政治も、前からわかってたこともあったとは言え、現実に伝わることひとつひとつがまるで嘘のようなおかしなことだったりする。

身近な人や家族を守ること、自分を守ること、体や精神を守ること、守ってもらえない世界でも自分だけは味方でいること。

生きる中で楽しみを見出すこと、どんなに小さな光でも、楽しみを見つけて生きていきたい。

誕生日を迎えても生まれた意味はまだわからない。

その意味を見つけられた人は、それだけですごいことだと思っている。

夏の雲も夏の海も、本当は知っているのだろうか。

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