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とある未練



ここ5,6年で大学に入学し、そしてここ1,2年で大学を卒業したわたしには、コロナ禍でできなかったことがたくさんある。

今回は、そのうちのひとつの話をする。



わたしは大学で、とある競技(厳密に競技と呼べるかどうかは怪しいのですが、今回は便宜上、この呼び方で統一します)のサークルに所属していた。
イベントに参加し、イベントで披露することがかなり重要となる種類の競技だった。

詳細は伏せる。
とにかく、所属していた。

わたしは当時、あまり真面目な部員ではありませんでした。正直そこにいて、プラスだったことの方が少なかったでしょう。
それでも、大好きだった人たちがいて、その人たちとやりたいことがあったから、未練があって。
それでこの話をしています。
以上を踏まえて、読み進めてくださいませ。




コロナ禍以降は出場したかった、例年は出場していたイベントにことごとく出場できず、もどかしい日々が続いた。

もどかしかった中でも、そこでしか得られない歓びや高揚、出逢いなんかもあった。
それだって全て素晴らしかったし、わたしにとっては本当に大切な思い出だ。


だけどやっぱり、あの先に続くはずだった道のことを、考えてしまうこともある。


仕方のないことなのだろう。
未練ってそういうもの。
……だと、思っていたわけなのだけど。

最近気づいたことには、この熱量の悔しさって、同期の中でも稀っぽい。
みんな、ここまで、未練があるわけではないっぽい。

わたしはその競技を、大学を卒業してからすっぱり辞めてしまったけれど、同期の中には、しっかり続けている人もいて。

そこで、あのとき参加できなかったイベントに参加している人もいる。

純粋に、うれしいねがんばってねよかったね、と、思う。


でも、じゃあお前もそうしたらええやんけ、という問題でもなく。


わたしがあのとき一緒にイベントに出たかったのは、あのときの部員であって、知らない誰かではないし。

わたしがあのとき物凄く苦しかったとして、或いは物凄く嬉しかったとして、それを共有できる誰かがいたとして、その感情を共にした人も、実際にはいないし。

わたしがあのとき発するはずだった言葉はもう、すっかり透明だし。


だから実際には、うれしいねがんばってねよかったね、だけではいられなくて、立派な同期の姿を見るたびに何だか悔しいような悲しいような、そんな気持ちになる。

素直に応援や祝福ができない自分のことも嫌で、以下堂々巡り。



同期はもちろん誰も悪くなくて、ただただわたしが、未練がましすぎるだけ。

だって、そもそもわたしが同期の中で良いようにコミットできていた割合って、本当に微々たるものだし。
マイナスの方が大きかったなとすら思うし。

たぶん同期がこれを読んだら「誰が言ってんだ」って笑うと思う。


わたしより悔しかった人も、やりきれなかった人も、たくさんいる。
彼らが今、別の場所で輝くことができているなら、夢に見た景色を見ることができているなら、それほど喜ばしいことはない。
そんなことは、充分わかっている。



それでもわたしは「あのとき、自分がやりたかったこと」について、考えてしまう。

時期がくるたびに。
そうでなくても、事あるごとに、楽しそうな後輩の姿を見るたびに。
いま無事に活動できていることの喜びを噛み締めながら、よかったねえと心から思いながら。

その裏で少しだけ、考えてしまう。


踏ん切りをつけたいなあと、時期が来るたびに思うのだけど、それも何だか違うのかもなという気もする。

未練が悪いわけでもない。
悔しい気持ちや悲しい気持ちが悪いわけでもないし、独りよがりだとしても否定されるべきものではない。

少なくとも自分で「わたしなんかが抱いていい感情では……」とか、言うべきじゃない。


最近はそう思っている。
そう思うことにしている。
否定したら、なんか、可哀想だし。

ちょっとだけうるさくしながら、また今年もこの時期が来たよって愚痴りながら、周りの人にいつもごめんねって謝りながら、薄れていくのを待つしかないのかもしれない。
(周りの人は、本当に、すみません。)


そもそも、うれしいねがんばってねよかったね、にしたって、心から思っている。

この気持ちは嘘じゃない。

改めて考えると、それにも救われる気がするし。


ぜーんぶまとめて、「仕方ない」って、ことにしよう。
いい言葉があったもんだね。


握り込んだ拳を少しずつゆるめて、大人になっていこうね。



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