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丸腰の自分

名前、役職、集団、出身地域…こういった類のもので自己紹介することが大多数である。初対面の人のことを知るのに、分かりやすい指標なのだろう。

しかしその度に、「私が今まで属してきた集団や持っていた肩書から離れた時、私は何になるのだろう」と、ふとその場から心が浮遊し、表面で飾られる属性と自分の内面との乖離に葛藤する。

そういう属性や経験を取り払った時に、自信を持って「私はこうだ」と言える人は、果たしてこの世界にどれだけいるのだろうか。

必死に何者かになりたくて恵まれた環境に身を置いて、それを疑ったり相対視したりすることもなく、あたかもそれが自分自身であるかのように「肩書」や「経験」という名の鎧をつけて自我を保ってきたのではないか、と思ってしまう。
その脆さに今まで、気づくこともなかった。

昨今のコロナによる自粛期間で、私自身その脆さをメタで見つめるようになったと思う。

これまでの私は、行動、行動、行動…という感じで自分に対して思考を十分に働かせることがあまりなかった。
行動が制限された今の時期だからこそ、時間軸で離れて客観視できるようになったのかもしれない。

だから私は、そのような状況の中で、1人になって、これまでの歩みとそれぞれの歩みに伴う自分の想いを呼び起こしてつぶさに振り返っていくことが自分にできる最大限のことだった。

今、断絶された状況で思うことは、私は真に自分のためだけに頑張ることはできない、誰かのために頑張りたい、ということである。
自分以外の他者のために頑張ること、尽くすことは、逆説的だが最高にエゴでしかないモチベーションだと思う。

また、私の場合はその他者が不利な状況に置かれた場合に「怒り」が湧き、エネルギー源になる。

この「怒り」は、他人への僻みや嫉妬等に起因するようなものではない、もっと混じりけの無い純白な「怒り」だと感じている。

自分で言うのはおこがましいが、私は必要なものだと思う。

ただ、完全なる自意識を捨てて、丸裸な状態で「これだ!」と思えるものに出会えていないだけで、まだまだ未発達なのかもしれない。

そういう余白を残しながら、挑戦を積み重ねたい。

まだまだ納得感を持って表せる言葉を考え続ける/養い続ける必要はあるが、これに気づけた自分をまずは自分が認めてあげたいと思う。

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