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学研 小論文/作文シリーズ ステップ基礎小論文 STEP3(2023年度) 大問5 の所感


問題

次の文章を読み、筆者が述べる、創造的な人間を育てることについてあなたの考えをたて書き、六〇〇字以内で述べなさい。
なお、解答用紙(たて書き用)を使用すること。

 「人を評価するときは、その人の答えではなく、その人がする質問で判断せよ」とは、フランスの哲学者ボルテール(1694~1778年)の言葉だが、この言葉は「どれだけたくさんのことを知っている人か」よりも、「どう考えることができる人なのか」を重視する欧米の知に対する伝統的な考え方が現れていよう。学校や社会の知育も、進学や就職の試験も、根本的にこの考え方がそれぞれの国で貫かれている。
 日本と欧米のこの違いが「既存の問題には強いが未知の問題になると全く手が出ない」「指示待ち症候群」「想定内のことには対応するが、想定外の事態になると機能不全になる」といったあしき現象の根本的な原因なのではないだろうか。
 ひと昔前、エアコンはモーターの騒音がひどく、何とかならないかと技師たちは日夜思案に暮れていたそうだ。「モーターをセラミック素材で覆ったら?」とか「モーターの回転の仕方を工夫したら?」等々、さまざまな素材を探したり、物理工学的な考えを詰めたり、先端的な技術をいろいろと試していた。
 しかし、どれもこれといった決め手にならず、絶望状態。暗い顔をした技師たちが集まる社員食堂で、ある日、事務職のAさんと一緒になると「どうしたんだ? みんな元気ないじゃん」と声を掛けてきた。騒音対策に行き詰っている旨を話すと、Aさんは「それなら、逆に音を出せばいいんじゃないか?」と一言。「えー、お前は何を言ってるんだ?」という技師たちの声を遮り、Aさんは「だって、音っていうのはサインカーブとかなんとかいうような、波の曲線なんだろう。だから、騒音が表す波形とちょうど逆の波形を描く音を出すんだよ。そうしたら、互いに打ち消し合って音が消えるじゃないか」。
 「あっ、それだ」。”音を出して音を消す”というAさんの発想に端を発して、エアコンの騒音解消技術は開発された。めでたし、めでたし。
 このエピソードが物語っていることは、理工系のさまざまな分野の先端技術に長けた技術集団が、知らず知らずのうちに”防音装置を付けたり、機械の動きをスムーズにすることによって音を小さくしなければならない”という考えに陥っていたのに対し、専門外のAさんは”あえて新たな音を出す”という全く違うアングルで問題を捉えて見せたということだ。
 小・中・高・大と理系が得意で、難解で高度な理工系の学問を同じような環境で学んできた優秀な人々の集団でも、そのことが逆に、同じ発想や考えしか生まれないという弱点になることもある。時に「どんな風に考えるのか」ということよりも、「どれだけたくさんのことを知っているか」を問うことが多い日本の従来の教育で育った人々の集団では、それが顕著になり、想定外の事態には対応できなくなりがちだ。
 子供たちが疑問を持つこと、不思議がること、余計なことを考えることを大人たちは大切にしなければ、想定外に対応できる人間や創造的な人間は育たないのではないだろうか。

(秋山 仁『秋山仁の教育羅針盤――共に、希望を語ろう』 信濃毎日新聞社刊より)

解釈

 概ねこういった論説文は、現代社会の批判の文章である(その批判に対する批判=現代社会の好評価である場合もあるが)。小論文の専門家(笑)が言うには、著者がそういった方面の専門家である故非常に説得力が強いため、大抵の場合筆者の主張に乗っかったほうが答案を書きやすいとのことである。これにもいろいろと思うことがあるが、それは「所感」にて述べることにする。
 今回もその例に漏れず、現在の日本の教育における問題について指摘した文章であった。欧米式教育の推進、或いは日本式教育の批判についての文章である。近年この思想がHOTなのか何なのかは知らないが、実際日本の学校教育内でも「考え方」を重視しましょうといった活動が増えているような傾向を見るし、また同類の文章を読まされる機会も多いであろう(※私個人の感覚でしかないが、)。調べてみればこの書籍が発行されたのが2017年であることも合点がいく。
 さて、答案を書くことも考えながら課題文を読めば、まず最初に目に付くのは、具体例が筆者の主張の補強として機能していないことだった。これ自体が筆者の主張が正しい/間違っているを断定できる要因には全然ならないのだが、少なくとも一つ"反対できる可能性"をここに得る。つまり、この具体例では、偶々Aさんが答えを出せる能力を秘めていたという解釈を否定できず、則ち結局は(未知の)問題解決能力というものは教育方針などではなく個人の能力の域に依るのではないかとして話を進めることができそうだ。
 筋さえ通っていれば自分勝手な意見を書いてもいいのだが(題意は自分の意見を述べることが焦点化されている)、それだけだと面白いだけなので、適切にそれっぽいことを書いて補うこととしよう。今回のケースでは、カントの「人は哲学を学ぶことはできない。 哲学することを学ぶだけである。」を用いることにした。

答案

(本来はたて書き、1行20字)
 筆者の定義に則り創造力を未知の問題・想定外の事態に対応しうる思考力とし、また育てることを能力を持つ人間を新たに生み出すことだと云うなら、創造的な人間を育てることは原理的に不可能と言える。
 確かに、創造的な人間は誰もが求める人物像であり、実際重要な存在である。しかし残念だがこれは育てられない。何故なら、人間はある問題に直面した際、自身の今持っている知識によって思考を行うが、人間が後天的に得られるのは知識のみであり、思考を得ることはできないからである。例えば欧米的指導によって考える方法を学んだとき、私が得たのは考える方法という知識であって、思考力ではない。即ち、私がこの方法を使ってある問題に臨んだとき、それは既に思考を放棄しており、ただこの方法に従って機械的に結論を導くのみなのだ。
 私は高校で倫理の学習を通じ、この教科に自分で思考するフェーズは一切無く、倫理史即ち故人が考案した考え方に従って問題に答えを与えるのみだと気づいた。カントが「人は哲学を学ぶことはできない。 哲学することを学ぶだけである。」と指摘したよう、人の思考力は先天的に決定していて、後天的に学び得られるものではない。
 故に、人類の活動によって創造的な人間が育つことはない。人類ができるのは精々、考える方法含む知識を詰め、対応できる既知の問題の幅が広がる教育を施すことくらいだ。

講評

第一段落:
 課題文をふまえてあなたの考えをまず示したのはよいが、

第二段落:
 筆者はつまり、知識より自分で考える力を育てることがこれから求められる、と述べているのである。これをまず理解しよう。
 「例えば欧米的指導によって考える方法を学んだとき、私が得たのは考える方法という知識であって、思考力ではない。即ち、私がこの方法を使ってある問題に臨んだとき、それは既に思考を放棄しており、ただこの方法に従って機械的に結論を導くのみなのだ。」のように述べているが、考える方法という知識を得ることでなく、自分で考える力をつけることの大切さについて筆者が述べていることを理解しよう。

第三段落:
 「人の思考力は先天的に決定していて、後天的に学び得られるものではない。」であるとしても、日頃から自分で考えることをしなければ、人は自分の思考力を使わなくなる。

  • 現代において創造的な人間が求められるのはなぜか

  • 知識を重視する日本の教育の問題点

  • どう考えることができるかを重視することが、創造的な人間をどのように育てるのか

などについて考えていこう。

第四段落:
 筆者が言わんとすることを理解した上で、今後求められることを示してまとめよう。

 思考力は学ぶものではない、学べないことについての説明が大半となり、筆者の主張についての考察が不十分である。これからの社会では知識より思考力がどう重要か、人間が持つ思考力を押さえつけずに伸ばすには何が必要かについて考えよう。

とのことである。

所感

 そもそも講評の内容が、筆者の主張に寄り添うことを前提にしているのは採点として理解に苦しむ。題意は自分の考えることを述べることであって、筆者の主張をよしよししたり、或いはここはこういう意味だよね!と採点官と一緒に確認したりすることでもない。筆者の考えの要約文や、ただ筆者の意見に共鳴することが正解ではないし、むしろそれらの文章はこの問題に対する解答としてなんら価値を持たない。
 第二段落の講評について、それが求められるが、それを育てることは理想論でしかないという文構成にしていることを理解していないし、第三段落も、それは知識の忘却であって思考が鈍化しているわけではない。最後の段落にて、日本も欧米も本質的に変わらぬ教育を施しているしそれが全てである、と述べているのにも関わらず今後すべきことを述べましょうね~などはおふざけ採点にも程がある。
 本当にしょうもなすぎて「講評」で示すことさえやめたのだが、「カントが~と指摘したよう、人の思考力は先天的に決定していて、…」の「指摘したよう」の後に"に"の文字を添えろなどと言うが、こんな表記の添削まがいの、自分の知識の無さを公開する採点をしている時点で採点官のレベルがお察しである。よく自分のハンコを恥ずかしげもなく押せたものだ。

 私も自分でこの講評が返却された後で一度自分の文も含め素直に全て読んでみたが、まあ確かに自分でもこれは認めざるを得ない不備であった点もある(採点官がそれを指摘できたわけではないが)。例えば、

 知識という能力に対比される形で述べられている「思考」と、知識と思考という二つの能力を使って行う行為としての「思考」が同じ単語が使われているのは、この文章の不適切な点です。

などと指摘してくれれば、こちら側としても非常に納得しやすいし学びにもなったのだが。。。別に全然私の文章が完全無欠だということを言っているわけではないのだが、ただ的外れな指摘はやめていただきたい。

 文章を右から左へと(上から下へと)つらつらと読むだけで、その意味など少しも考えずに、そして根拠のない自信の下に文章を否定することは簡単だが、そんな非論理的手法によって"小論文"の評価など行わないで欲しい。小論文は"論"の字を冠するよう、一定の論理的態度が求められる場ではないのですか? 小論文の英訳"essay"、則ち随筆のことを言っているなら話は別ですが、そのような意図でこの問題が出ているわけではないでしょう?

 そもそも小論文という言葉・概念自体に疑問を呈する必要があるとは思いたくない。評価される作品を見ても、自明な論理の飛躍や無相関・無関係、理想論、矛盾などを孕んでいることが多く、とてもではないが論理を織りなした文を評価しているようには見えない。まず論理的な態度を究極的に求めるなら、議論の場が設けられて一つの解答を出すのが本質的であって、解答者◁採点者、出題者という上下の関係ができている時点でこれの達成は難しいし、実際今回の件についてはこの権力が乱用された形だと感じた。

 途中の「解釈」で言及したことについてもここで触れるが、「ずっとそのことについて考えてきたような専門家が言うからには結構正しいことで、高々数年生きて経験してきただけのあなた方の脳では、それの否定は難しい。」という意見は尤もであるように聞こえるし、確かに私たちの勝手な意見よりは彼らの言うことの方が正しい。がしかし、彼らもまた社会常識や通念を批判しているのであって、人類の歩んできた歴史の培ってきたそれに比べれば専門家の経験などは浅はかですらなく、それに共鳴する形であれば我々も専門家と十分な議論が行えることを見失ってはならない。

 さて、長々とここに思いを綴らせて貰ったが、結局私が言いたかったのは小論文が作文と区別されるのは嘘だということである。

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