意味づけする主体

いずれにせよ
意味づけするのは「自分」だとわかっている
本当は、何も起こっていないのかもしれない
好き勝手に意味づけするのは
意味づけしたいのは、「自分」

でもね
人間ってそういうものじゃない?
一喜一憂して
安心したり不安になったりしたいのよ
それとも、それは病気?
何が起こっても、起こらなくても
「ふんふん」って思えることが正しいことなの?
そうやって達観できることが、
成長であり強くなることなの?

障害を乗り越えて進むことの方が
取り組む対象がなくなるよりも辛くない
何もないのか
すべてあるのか
その認識の間を振り子のように揺れ動く

不足を探して
充足を願って
その運動そのものが間違い
わかってはいても
ここにいる私を認めてください
お願い