わたしはわたしの(短編小説)


5月10日。
今日は待ちに待っていた、
孫が遊びに来る日だ。

孫の名前は、愛。
今年から小学校6年生になった。

近所の店に、お菓子を買いに行こう。
和菓子よりは、洋菓子がいいかな。
そうだ、果物も買ってやろう。

百合子はそんなことを考えながら家を出た。


歩いているとご近所さんが庭掃除をしているのが見えた。

息子さん夫婦と2世帯で住んでいる立派な門構えの家だ。

百合子の木造の家とは違う洋風の玄関を見ていると、
戸締りちゃんとしたかしら、と思いあたり来た道を引き返した。


玄関の鍵はかかっていたので、再びスーパーをめざして出発する。

再度同じ道を歩きながら、
道ばたにえんじ色の花が咲いているのを見つけた。

百合子はこの花をよく知っている。
アネモネだ。

アネモネを見ると、夫の孝明のことを思い出す。

ずーっとむかし、アネモネを一緒に見た事があるからだ。

プロポーズの時も何かの花を貰った気がするが
なんだったか思い出せない。

でも、歩きながら一緒に見たアネモネだけは、ずっと百合子の心の中にある。

あの日は暖かい日で、散歩に行こうとなった。
結婚して5年ほど経った時だったか。
私たちにはしばらく子供が出来なかったから、
夫婦二人で散歩をすることが多かった。


川沿いを並んで歩いたあの日。
夕暮れ時、西から伸びる影が揺れていた。



河川敷に生える植物はみな夏に向けて緑を濃くし、
蕾を付けているシロツメクサも見える。

その中に、えんじ色の花がぽつんと咲いていた。


「アネモネだな、この時期に咲くのは珍しい」
孝明がそう言ったのを、百合子は今でもはっきりと覚えている。



昔のことを思い出しながら歩いていると、直ぐにスーパーに着いた。

寂れたスーパーの端には花屋があって、お墓に備える花やちょっとした花束が買える。

懐かしくなって、売られていたアネモネを買った。

食料品と花を買い、スーパーを出る。


家に着くと、もう12時を回っていたので
アネモネを寝室の花瓶に挿したあと
昼ごはんを作って食べた。



14時すぎ。

縁側から
「おばあちゃーん、愛だよ〜」と明るい声が聞こえた。


玄関を開けると、
「もう、何回も呼んだのに」と頬を膨らませた愛が入ってきた。


百合子は「いらっしゃい、今からお菓子準備するからね」
と言って台所に戻った。


家にあったお菓子を詰め合わせて食卓に持っていく。


2ヶ月ぶりに見た愛はまた大きくなったように見える。



学校の話や愛の両親との喧嘩事件など、
たわいもない話をした。

「でも愛ちゃん来年から中学生でしょう、
お父さんやお母さんの言うことは聞くんだよ」

そういうと愛は驚いた顔をして、


「おばあちゃん何言ってんの〜もう中学生じゃん、今中学2年生!!!」


「あらまぁそうだったの。大きくなったねぇ」


百合子は心底驚いた。まだ小学生だと思っていた。


自分はいつの間に孫の年齢も覚えられなくなってしまったんだろう。

離れているとは言っても2、3ヶ月に1度は必ず会いに来てくれるのに。


その日はなかなか眠れなかった。

愛は明日から学校だと言って夕方には帰ってしまった。
百合子は21時30分には布団に入るようにしている。
いつもならすぐ眠りにつくのに、その日は目が冴えていた。


最近は目も悪くなってきているから、
頭が冴えていると言った方が正しいかしら。
そんなことを考えながら百合子は昔の自分を思った。


故郷を離れて遠いところで結婚した私。
なかなか実家に帰れないうちに、両親は死んでしまった。
面倒見の良かった2人の兄も、
一緒に生きた愛しい夫も、
もうこの世にはいない。

1人で生活し始めてもう8年は経っているが、
不思議と寂しくはなかった。
百合子の中にはいつも思い出があったからだ。


でも、その思い出まで失ってしまったら?
今の私は、私のままで居られているんだろうか。
そんな不安が頭から離れない。



年齢とともにこぼれ落ちていく記憶をかき集める体力など百合子にはもうない。


目を閉じて、寝ようとしてみる。
まぶたの裏に孝明の顔が浮かんだ。
大丈夫。まだ覚えている。


孝明と一緒に見たアネモネ。
あの時の光景もまだ百合子の目は思い出せる。


目を開けて、部屋の端にある花瓶にささったアネモネを見た。

月明かりに照らされた深い赤が私をとらえる。

このアネモネもいつかは枯れるんだろう。
孫の愛も、いつか大人になって結婚して、
子供を産むだろう。
そしてその子供もまた、自分の人生を歩んでいく。


百合子は目を閉じる。
人にも、植物にも、物にも、それぞれの行き先がある。
その行き先は、誰にも決められない。



百合子の心はもう揺れていなかった。







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今回は、合唱曲の「うたをうたうのはわすれても」で小説を書いてみました。

考えれば考えるほど、自分とは遠い歌詞だと思ってしまって難しかったです。


でも、百合子みたいな人は自分の行き先の1つだとも思うから、今回このような小説にしてみました。


いつか、愛サイドの物語も書きたいと思っています。

それでは👋

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