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慶州ノート2 2023年3月

その国の芸術を知ることが、やがてその国の人情を理解し、
愛を呼び覚まし、敬念を抱くに至る道ではないか。

柳宗悦 “彼の朝鮮行” より

14:00 仏國寺(불국사)と石窟庵(석굴암)


 コロナ禍も明け切らない平日の慶州は人がまばらだ。タクシーの技士ニムが桜並木を指して「慶州に来るなら春だよ。」と教えてくれた。
 車は全速力で善徳女王(新羅27代国王、朝鮮初の女王)の陵をスルーし(本当は行きたかった)、仏國寺へ到着。月精橋付近からタクシーで約25分くらい、16,000₩ほどだ。

仏國寺(불국사)
528年に新羅国王の王母の発案で阿弥陀仏を祀り、以来751年〜765年に現在のような伽藍形式の広大な寺を建設など色々な記録があるが、長い歳月をかけて作られ今の形になったと思われる。1592年、文禄の役で倭軍により破壊、全焼。日本統治時代一部修復。解放後に大規模な修復が行われた。
ユネスコ世界文化遺産指定、6つの国宝がある。

青雲橋と白雲橋の石組の規律正しい真面目さ。仏教徒の加藤清正が
寺に保管されていた武器を発見し“美しい花ほど毒を隠している”と焼き討ったとか。

 入場券を買って仏國寺に入る。韓国人なら修学旅行などで一度は訪れる場所らしいがこの日は団体客も見えず空も高く清々しい。
 知り合いの韓国人が「仏國寺は奥殿まで行くその過程が大事なんです。」と意味深なことを言っていた。山を平地にならし、門をくぐり、池を渡り、大雄殿、阿弥陀仏が祀られた極楽殿へと続く仏國寺は、新羅人の思い描いた理想郷なのだ。今は登ることが出来ないが、青雲橋(下部)と白雲橋(上部)という階段を一歩一歩登ることは人生の苦しみを表しているのか。上り切ったところにある紫霞門は、あの世とこの世を境界とする極楽浄土への入り口なんだろう。
 
 大雄殿前にある国宝の二塔に目が釘付けになる。正方形、八角系、蓮華座などの層からなる独特の造形をした多宝塔と、潔く直線だけで構成されたシンプルな造形の釈迦塔!この二塔の対照性の美しさにはしばし見惚れてしまった。加藤清正の焼き討ちにも耐えたことは有難いし心苦しい限りだ。(アジアを旅するとこんなんばっか)

 極楽殿と書かれた扁額の裏に豚の木彫が隠れているのだが、見えない豚は撫でるとお金持ちになるとされる金の豚となり、極楽殿の前に設置され韓国客の人気者だ。古代人の幸せと現代人の幸せの形がつぶさに見れて面白い。


新羅人の信仰の深さと堂々とした造形力と春の陽射しが眩しくて。


 石窟庵に向かう。仏國寺の入場券売り場で聞くと、石窟庵行きのシャトルバスが1時間に1本、1:40、2:40、3:40…と毎時40分に出ているとのこと。走ってバスに飛び乗った。(仏國寺から歩いて行ける山道もあった。)

 20分ほどで到着。ここからだらだらときつくはないが石窟庵まで登って行く。韓国人のおばちゃんたちもお喋りしながら登って行く。

石窟庵(석굴암)
仏國寺に付随する、吐含山(トムハムサン)の東側中腹に建立された石窟寺院。石で組まれたドームの中央に本尊、十一面観音、十大弟子などが配置。仏教が虐げられた李朝時代には忘れられ、明治44年、偶然郵便局員が見つけた。国宝であり仏國寺と共に世界遺産。

 日本の美に対して静かに語る柳宗悦の書くものが好きだが、こと朝鮮のことになると人間が変わったように熱くなるらしく「石仏寺の彫刻について」で矢鱈な勢いで“石窟庵愛”をさらけ出すのを読んで(柳宗悦、一度の慶州行きで石窟庵を3度詣でたらしい。笑)一体、そこまで熱くなるものは何なんだろう?と気になり、とうとうここまで来てしまった!

半分古墳に埋まるように設計された石窟庵。中の荘厳さと外のキッチュさの落差や如何に。

 中はガラス貼りで石窟の中を歩くことはできず狭く感じるが、優雅な天蓋のある空間に座している阿閦如来の厳かな表情のせいかその包み込まれるような目線のせいか、私と神様二人だけの世界にいるような気持ちが湧き起こる。周辺にたくさんの仏がいてもだ。決して大きくはない空間を作る石のひとつひとつ、それに刻まれた仏様一体一体と本尊が作り出す空間は、ひとつも切り離すことができない宇宙だ。

 敦煌の莫高窟に行ったことがある。莫高窟もアジャンタのそれも山を掘った石窟だが、この石窟庵は周りが硬い花崗岩の山なので容易には作ることが出来ずに、石を積み重ね人力で石窟を作ってしまった。 
 李朝時代に仏教は排斥され、仏國寺は廃寺になり石窟庵も忘れ去られていたところを、明治時代に郵便局員(こんな山に何を配達に?)に見つけられた時には天蓋は崩れ半ば埋まっていたらしい。
 日本の統治時代に総督府が修復した際には、適切な湧水処理ができず修復というより毀損に近いものにしてしまったことから至る湿度管理された現在のガラス張りの空間だが(高松塚古墳でも同じようなことをやっていたような!)いつか創建当時のように中に入れる日は来るのか。

まっすぐ先は東海に続く。なんか背筋がぞくっとするくらいな立地を感じる。

 外に出ると視界には遮るものがなく、広く開けているのに気づく。本尊は東を向いている。太陽が上りそして中秋の頃には一等美しい月が東の空から顔を出すのだ!月は死者の国である極楽浄土だと聞いたことがある。念仏を唱え極楽へ行けることを祈り阿弥陀様にお迎えに来ていただく、なんという好立地。 
 科学も医療もない時代に、月の満ち欠けや山や海の自然と共に生きることは今よりももっと死の世界が近かっただろう。あの世に託した人々の知恵と創造と祈りに溢れた仏國寺と石窟庵だった。
 韓国人のおばちゃんたち、途中の売店でアイスを買って美味しそうだったわ。

 途中、民俗村で陶器を見てお茶をして、再び芽吹き前の桜並木が続く道をタクシーで古墳のある町に戻る。思ったよりも長い桜並木は春になれば見事だろうなと思う。
 「できれば満開の桜の下で死にたいもんだな、お釈迦様が亡くなった涅槃会がある如月(新暦なら3月中旬から下旬)の十五夜の頃に」というあの西行の辞世の句が頭に浮かぶ。さっと咲いてさっと散る桜には死のイメージがつきまとうが、まさか、この桜並木は極楽浄土への花道なのかな?慶州市の演出だったらやるなと苦笑したが、映画「慶州」にも描かれたように、あの世とこの世の境にあるこの町に、桜はとても具合がいい。


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