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マリーの恋

ある東欧の国の片田舎に一人の女がいた 彼女は老いた盲メシイのように暮らしていた
 彼女は町の食堂で小間使として働いていた 彼女の顔はよくわからない いつも俯いていたから 前髪は長く顔半分を隠していた ある日、兵隊たちが食事に来た 店は一杯になった マリーは賑やかさに恐れて、隅で硬くなっていた 兵隊たちの一人、ハンスがマリーに声をかけた 紙ナプキンをくれるように頼んだのだ マリーは緊張して、紙ナプキンをハンスに渡した それからハンスは、その店に時々、現れるようになった
マリーは、その度に身を固くした 何かが起きるようで恐かったのだった ひと月が過ぎる頃、ハンスはマリーの声を知った マリーの声は嗄れていたが、どことなく愛嬌のある深い声だった マリーは幾つだっただろう もう、年齢を数えることを忘れたような女性だった ハンスは店に食事に来る度に、マリーに声をかけ、些細な頼み事をした フォークとナイフが欲しいと言ったり、皿を下げてくれと言ったり マリーはそんなハンスを時々、みつめて、甲斐甲斐しく世話をするようになった
マリーの前髪はふさふさと結われて、額が見えるようになった 白い額だった
その頬は赤く染まり、老いた盲メシイのようだった彼女の雰囲気は、店主から見ても明らかに変わって行くようだった
マリーは背も伸びたように見える 腰を曲げて用事のない時は角の腰掛けに静かに座っていたのが、今ではハンスの見える位置に立っている まるで、声をかけられたら、直ぐに応えられるように
 二人が初めて逢ってみ月が過ぎた 今やマリーは老いた盲のようではない
白い額を見せる甲斐甲斐しい女性になった ハンスはある時、一本のカーネーションを持って来た マリーにそっと渡した マリーははにかみながら瞳を見張った マリーの顔にエクボができた 
ハンスは兵隊だから、居留地に向かわねばならなくなった
戦争が白熱していた マリーに逢いに来れなくなったのだ 塹壕のなかで精一杯の働きをするのみ 手には小銃、軍帽を被り、胸にはマリーの一房の髪を抱いていた
マリーは悲しかった 自分を生まれ変わらせたハンスと戦争のために、遠く離れ離れになったから
しかし、忍耐してハンスを待ち侘びた
年月が過ぎてとうとう、戦争は終わり、ハンスは右足を負傷して、帰って来た 松葉杖を突きながらマリーのいる食堂を訪れた
この日、マリーは長い髪をすっかり、結い上げていた 愛しいハンスを迎えるのに、頬は紅潮して落ち着かなかった 老いた盲の姿はもうそこにない そこには恋する乙女となった晴れやかな女性がいた
二人は再会した ハンスの右手にはカーネーション、松葉杖を突きながら、一足一足、マリーに近づく
二人は、初めて抱擁した
その日、村の教会の鐘が鳴った 松葉杖のハンスと、少女のように頬を染めて、白い額を輝かせたマリー 二人には、時間が与えられた 神様のくださった時間 二人を祝福する神様の時間が与えられた
もう何も恐れることはなかった 戦争は終わり、村の井戸でハンスの服を洗うマリーと 片足を庇いながら大工仕事をするハンス
二人には祝福が与えられた
いつまでも平和な時の流れの中で、二人は満ち足りるだろう また、戦争が始まるまでは 
神よ、憐れんでください 小さな二人を守ってください

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