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「演劇批評の公演レビュー化」はどのように問題であるか
「演劇批評が単なる公演レビューでしかなくなってきている」という問題がある。と、言っている人がいた。僕もそれに同意する。
かつて「新劇」に対して「小劇場演劇」と呼べる現象が発生し、その「小劇場演劇」の中から「静かな演劇」と呼べる現象が発生してきたように、複数の作品からひとつの共時性を批評的に切り取ることが出来ていた。いま、それと同じことが演劇批評において出来なくなってきているのではないか。それが「
〈価値観の対話〉から〈世界観の対話〉へ - 「演出家の時代」を終わらせるための演劇論
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「作者の死」というロラン・バルトの有名な言葉は、1967年当時、作者の持っていた絶対的な権威の失効を宣言し、テクストの新たな読解のために用いられたものだった。しかしバルトがその言葉を用いるよりもずっと先に、ニーチェは「神は死んだ」という形でその思考枠組みの萌芽を指摘していた。それは19世紀末頃のことだ。演劇において「演出家」という役割が生じ始めたのも、19世紀末頃のことである。
バルトと
言葉を持つ者の苦悩 / ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』
敗戦を含めた戦争の経験が「加害意識」として抱えられてしまうのは、いささか皮肉なようにも思うが、ドイツ・オーストリア国民の中にそのような意識があるのは疑いようもないだろう。ただし、その意識の表れ方は必ずしも素直なものとは限らず、とりわけオーストリアの場合、エルフリーデ・イェリネクが批判的に指摘するするように、「自らは被害者である」と思い込むような強迫的・抑圧的な意識として往々にして表れる。イェリネ
もっとみる「観る音楽、聞くダンス」そのラディカルな表現としてのローザス&イクトゥス『時の渦』
“See the music, hear the dance.”
20世紀を代表する振付家、ジョージ・バランシンがこの発言で語っているところの、「観る音楽」「聞くダンス」、それが端的に表すように、彼はバレエの表現を解体し、抽象ダンスへと向かうことで「バレエを文学の世界から音楽の世界へと近づけた」(市川雅『ダンスの20世紀』)。そして音楽とダンスの新たな関係性を模索する中で、彼はコンテンポラリー
焼け野原に物語を立て直す
完全な自由を前に、人間はただ戸惑うだけであり、本当に人間が自由に振舞うには、ある程度の制限が必要だ。そんなことは分かっていると思っていたが、そのことについて改めて思わされた。いつにも増して近頃はアイデアを身体で考えられるようになってきた。それだけ身体が経験値を溜め込んでいるということで、望ましいことである。
批評再生塾の第3回目が水曜日にあって、渡部直己さんの文学批評講義を受けた。そこで語られた
新しい集団(創作)論へ
今日はシアターコモンズラボのオープンセミナーに参加してきた。制作、プロデューサー向けだが、僕は自分で自分のプロデュースをやらねばならんので、そういう知識も必要な気がして参加することにした。あと僕は森山直人ゼミにも参加することになっている。ジゼル・ヴィエンヌWSにしてもだが、今年はどっぷり芸術公社にお世話になる。
さらに言えば僕は批評再生塾も聴講しているのだし、クマ財団も合宿まで用意してなんやかん
モノローグの不可能性 / ベケット作品の主題について
邦訳されたベケットの作品を読んでいると、翻訳者による多大な注釈が加えられていることに気がつきます。それは単に翻訳するのでは伝わり得ない要素が、ベケットの作品では多く描かれていることの証拠でもあります。……というより僕は、多いどころではなく、ベケットは翻訳では伝わり得ない要素それ自体を主題として書いているのではないかと考えます。その要素とは「言語の記号性」のことです。
より正確に「シニフィアン」と
ストレートプレイの理想形 / シスカンパニー『令嬢ジュリー』
これはどこかの記事で読んだことですが(当の記事見つからない)、飛行機の機長によって目指される心地よいフライトとは、乗客に「良い」という風に意識すらされないフライトなのだそうです。なぜなら乗客は高度一万メートルほどの場所に、つまり危険な場所にいるのであって、そのことを少しでも意識してしまうことは乗客にとってネガティヴだからです。「良い」ことが当たり前であり、そのことが意識すらされないでフライトを終え
もっとみる続・ゲッコーパレード『ハムレット』について
また少し考えが整理できたのですが、これもツイッターにダラダラ書くのは嫌だし、もはや誰も読まないと思うので、こっそりとここに書く。
ゲッコーパレードについて「家」の「日常性」という言葉を使ったばかりに、その言葉が一人歩きを始めてしまって、ちょっと後悔しているのですが仕方ない。それはたぶん、多くの人が関心を持っている問題だということなのでしょう。
個人的には、あまり自分の言葉で書きすぎるの
最初から存在しなかった「日常性」 / ゲッコーパレード『ハムレット』について
4月2日にゲッコーパレード『ハムレット』を観てツイッターに批判的な感想を書いたのですが、一日置いて色々考えたので、もう少しだけ書きます。とりあえず、おさらい的にツイッターに書いた文章を載せておきます。
ゲッコーパレード『ハムレット』旧加藤家住宅という、かつて人の住んでいた築40年の木造家屋でハムレットをやるよ、という「戯曲の棲む家」シリーズの一作。面白いという噂と、伝え聞くコンセプトが魅力的