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VTuberって何が面白いの?

我、世が世なら軍師ぞという根拠のない自信に満ちあふれ、まるで永遠の命があるかのように毎日を無駄にしている。働かない生活の醍醐味は膨大な時間を自由に使えることだが、結局ゲームやネットなどお金のかからない趣味に行き着いてしまう。これからどうしようという漠然とした焦燥感に付きまとわれ、かといってさあ頑張ろうなんて気力も湧いてこず暇を持て余してYouTubeばかり見ていた。YouTubeは永遠の時間を潰すにはもってこいの娯楽だ。日々アップロードされ続ける動画を見尽くすにはどれだけの時間がかかるのだろうか。しかしまあ、その人の好みに合わせて動画がおすすめされていくシステムはよく出来ていると思うが、ひろゆきの切り抜きを一本見ただけでおすすめがそれ系の動画で占領されてしまったのは厄介だった。最近はVTuberが流行りらしくておすすめによく表示されるようになったのだけど、これまたひとつ見始めると美少女フィギュアよろしく仲間を呼びはじめた。

こんなニコ生主が着ぐるみでゲームするだけのコンテンツ何が面白いんだ、と思っていた。一人のVTuberが月に一千万円以上の投げ銭を獲得するのも、ウィナー・テイクス・オール(勝者総取り)というインターネット環境で広く見られる現象のひとつでしかないので、そこに関しては疑問はないが、最強の配信者加藤純一が「絵畜生」と表現したのも分からなくはない。とはいえ知らないものは批判できないというジャーナリズムの精神で視聴し始めたところ、革新的な面白さはないにせよ探せばそれなりに評価できる要素もあると思ったのでそれについて少し書いていこうと思う。

バーチャルというタテマエを使うことで半分がキャラクターで半分が生身の人間という都合のいい存在になった……という議論はキズナアイや輝夜月の時代にやり尽くしたと思うし、私としても結論が出ていることなので今回は「関係性」に注目していきたい。

まずVTuber同士の学生のようなフラットな人間関係はいいな、と思った。ホロライブやにじさんじのような大手事務所では〇期生という括りでコラボしたり一緒にゲームをやったりするので、同級生の、もしくは代が違えば先輩後輩のような関係性になるのだろう。もちろん夢月ロアの方言パワハラ事件で明らかなように裏では穏やかではないというのはその通りなのだろうけど、生身のYouTuberのようにあからさまな上下関係が存在するような感じではないし、別に視聴者にわからないレベルなら気にせず楽しめると思う。それにトラブルがあっても運営という巨悪がスケープゴートになるので本人に矛先が向かないという側面もある。

人間関係のない人間像はリアリティがない。人は社会動物である以上、関係性の生き物だし、相関図や関係性を消費して生きている。映画ファンは最初こそ映画本編を楽しんでいたはずなのに気づいたら役者やスタッフのゴシップを追い始めている。文学ファンも作家たちの人間関係や誰にどう影響を受け交流したかを盛んに論じている。それはキャラクター消費でも同じで、最初はキャラクターの表面的な魅力を消費していたとしても、いずれその背後にある人間関係を消費し始めるのだ。

配信者のコンテンツ力や面白さの引き出しは有限であって、それらは遅かれ早かれ飽きられてしまう。「歌ってみた」がメインコンテンツになることかないのは、それはフックとして興味を持ってもらうきっかけに過ぎないからだ。だからこそ配信者たちはコラボする。ぼっち系YouTuberのパーカーですら動画に親友を登場させルームシェアを始めた。一人だけの世界はとても狭いことを知っているのだ。新しい特技を身につけるより、コラボという形式で人間関係を消費してもらう方がずっとコスパがいい。

普通のYouTuberとは違い、極端なことを言えばVTuber同士はほとんどゲームでしか繋がっていない。これはインターネットをナワバリとする人たちと全く同じだ。古い友人との繋がりがモンハンやAPEXだけになってしまっている人も少なくない。こういう陰キャ向けの親近感が人気を下支えしているひとつの要因だと思う。

VTuberの顔の見えないネットの人という人間像がこの時代にマッチしていると思う。Twitterのフォロワーのアニメアイコンを思い描いて欲しい。そのうちの何人の顔を思い浮かべることができるだろうか。おそらく会ったこともなければ自撮りすら見たことがない人も多いだろう。しかしながらその人たちをひとつの人格として認識できるだろうし、コミュニケーションも可能だ。VTuberもそんなアニメアイコンを顔に据えた人たちと同様に記号的な外見で成立している。

VTuber同士がオフ会で会うとき、だいたいそれが初めて外見を知る機会になっている。これはインターネットで寂しさを埋めている人間のコミュニケーションそのものだ。相手の人格的な部分は知っていても、実際に会うまで顔も知らないというのは現代ではよくあること。Tinderで初めて会う男女も相手のプロフィールに登録されている加工写真をそのまま信じ込んでいる人はおらず会ってはじめて真実の姿を知る。入社時からリモートワークをしている新入社員だってやり取りは交わしていても会ったことのない同期はたくさんいる。これは別に特別なことではなくて現代ではよくあることだし、インターネットの人間関係ではむしろ主流だ。だからこそVTuber同士の人間関係に視聴者はリアリティを感じてその世界に入り込むことができる。これは視聴者と住む世界が違う声優同士だったり芸能人同士では成立しない。

基本的にエンターテインメントのベースは80〜90年代に確立されているので、YouTuber全般に対してよく言われる「やってることは〇〇と同じ」というのはある意味当然だと思う。しかしそれはコンテンツとしての表層の部分だ。VTuberは人間関係の消費という観点からすれば現代的な寂しいインターネットユーザーにピンポイントで響くコンテンツになっていると思う。ここまでを通して新規性という観点からはここまで指摘したような現代的な人間関係にハマったキャラクターかどうかを検討するのがいいと感じた。

それにしても現実逃避がやめられない。

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