日記でGO

正史とは、国家事業によって編集され、我々の先祖によって正統と認められた歴史書のことだーーたぶん。

昨日の続きになる。横溝正史は本名を「ヨコミゾマサシ」という。が、皆さまご存じの通り、筆名は「ヨコミゾセイシ」である。作家仲間に字を読み間違えられ、「ヨコセイ」と渾名されたことが由来という。

こういうことはよくある、と思う。

「正史」という漢字の並びを目で見て、ふつう我々が読むのは「セイシ」だろう。なぜなら、正史という語を我々はよく見ているからだ。

横溝正史の小説にはこのモチーフがよく出てくる。というのは皆さまご存知の通りで、金田一耕助という架空の私立探偵は、その正史を明かすというか推理して読者というか視聴者というか消費者に知らせる、ある種のナレーターである彼はアメリカ帰りのインテリであるーー小説の設定上では。

金田一耕助を演じた人間は24人ほどいるが、その約半分は偽名を名乗って活動する、あるいはしている。

ヒトは偽名を名乗る人物を人物と認めるだろうか?

というモチーフも横溝正史は好む。あるひとりの登場人物が実はふたりでした、逆にふたりと思っていたが実はひとり。ということが頻発するのはそういうことだ、と思う。

このモチーフが映像作品に転化するとどうなるのでしょう。

野村芳太郎版の『八つ墓村』の祟りの中心にいるのは山崎努であるが、彼は彼の父をも演じているし、市川崑版の『犬神家の一族』、あのスケキヨと静馬は、西郷輝彦が一人で二役をしている。

今日再見しているーーこの日記を書きながら観てる『悪魔の手毬唄』でも、ふたりは実はひとりでした、というのがアレになっている。

この映画、若山富三郎がいい。すごい存在感。

勝新だと思ってた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?