見出し画像

Songs for Today's Birthday 3/2 - Tony Meehan

Tony Meehan

トニー・ミーハンは、ロンドン北西部のハムステッドでアイルランド人両親のもと生まれました。彼がドラムを叩く事に興味を持ったのは10歳の頃のことでした。それから数年後には、ロンドンのダンスホールで演奏するバンドに加わっていました。

クラシック・パーカッションにも興味を持ち、1957年にロンドン・ユース・オーケストラでティンパニーを演奏しました。その後すぐに、週給25ポンドでツアーバンドの仕事を依頼され、弁護士を目指して学んでいたミーハンは、6ヶ月間の休学をする事になりました。その後、ロンドンのキャバレーで仕事を見つけて、演奏活動を続けていき、結局学校には戻りませんでした。

当時の多くのティーンエイジャーと同様に、ミーハンは激しいリズムのスキッフルの世界に惹かれていました。1958年末、ギタリストのハンク・マーヴィンとブルース・ウェルチが彼らのグループ、ドリフターズの代わりのドラマーを必要としたときに、ミーハンはその仕事を引き受けて、その後の3年間はほとんど休みなくライブ演奏とレコーディングを続け、クリフ・リチャードのバックとグループの両方で、インストゥルメンタル・コンボとして独自の地位を確立していきました。

1959年1月にリリースされた最初のレコードは、クリフ・リチャードの"Livin' Lovin' Doll"で、その後、グループのデビュー・シングル"Feelin' Fine"がリリースされました。同名のアメリカのヴォーカル・グループのマネージャーから訴訟を起こされる恐れがあったため、ドリフターズはシャドウズと改名しました。

1961年10月、まだ18歳だったミーハンはグループを離れ、シャドウズのアビー・ロード・スタジオで仕事をしていた時に夢中になった作曲家とレコード・プロデューサーとしてのキャリアを追求するようになりました。彼はデッカと先駆的な独立プロダクション契約を交渉し、その下でデッカにアーティストを呼び寄せることになりました。最初の成功は、ロンドンのウェストエンドにあるクラブ「サドル・ルーム」のオーナーの娘、ルイーズ・コーデットの"I'm Just A Baby"で、全英13位を記録しました。彼はまた、フランク・アイフィールド、ビリー・フューリー、ジョン・レイトンなどのセッション・ドラマーとしても活躍しました。

その後、ミーハンは再びステージに戻り、今度はブルース・ウェルチとの不和でシャドウズを脱退したハリスとコンビを組むことになりました。ジェット・ハリスとトニー・ミーハンとして、彼らはミーハンがプロデュースした"Diamonds"が1963年1月、シャドウズの"Dance On"に代わって全英ポップチャートのトップに立ちました。続く"Scarlett O'Hara"は全英ポップ2位、"Applejack"が全英ポップ4位とヒットを放ちました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?