パレスチナ問題まとめ①

19世紀末 ユダヤ人のパレスチナ入植開始
 19世紀末、ユダヤ人たちは、パレスチナに移り始めた。これは、民族主義、帝国主義及び社会主義に煽られたものであった。なお、この時代のパレスチナの統治はオスマン帝国が行っていた。

1914年~1918年 第一次世界大戦
 1914年に第一次世界大戦がはじまった。これは連合国側と同盟国側の戦争であった。

1915年~1916年 フセイン・マクマホン書簡
 連合国側のイギリスは、同盟国側のオスマン帝国を混乱させたかった。そこでイギリスの指導者マクマホンは、アラブ人指導者フセインとの間で、オスマン帝国支配化のアラブ人の反乱を呼びかけ、戦争に勝利した暁にはアラブ人の独立国家を約束するという書簡を交換した。

1916年 サイクス・ピコ協定
 イギリスのサイクスと、フランスのピコとの間で、オスマン帝国のアラブ人地域を分割する約束をした。具体的には、現在のイラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスが、シリアとレバノンをフランスが取得する内容であった。

1917年 バルフォア宣言
 1917年、イギリスは、シオニストに戦争への協力を求めた。そして、イギリスの政治家であるアーサー・バルフォアは、戦争に勝利した暁には、シオニストがパレスチナに国家を作ることを許すと約束した。
 以上、①フセイン・マクマホン書簡、②サイクス・ピコ協定、③バルフォア宣言をあわせて、イギリスの三枚舌外交という。

1918年 イギリスの委任統治開始
 第一次世界大戦後、パレスチナは、国際連盟からイギリスに委任され、イギリスの委任統治領となった。

1933年 ナチス政権誕生
 1933年、ドイツにおいてナイツが政権を握った。ナチスは、ユダヤ人はドイツ人という優秀な民族の知の純潔を汚しているいるとして、ユダヤ人を排除した。ユダヤ人たちはやむなくパレスチナに流入した。

1939年~1945年 第二次世界大戦
 1939年、第二次世界大戦がはじまった。この戦争は1945年に終結した。パレスチナのシオニストは当初、親イギリスであった。しかし、連合国側の勝利が確実視されるようになると、シオニストはパレスチナに自分たちの国を建設することを望み、反イギリスに転向し、イギリス軍に対するゲリラ攻撃を開始した。これにより、イギリスはパレスチナの放棄を決め、パレスチナの問題を国連にゆだねた。

1947年 国連によるパレスチナ分割決議案
 1947年、国連はパレスチナの分割決議案を提示し、同決議案は国連総会における国連決議によって可決された。

1948年 イスラエル成立
 1948年、シオニストは、この国連決議を受け入れ、イスラエルの建国を宣言した。

1948年 第一次中東戦争
 国連の分割決議に対して、パレスチナ人側は反対した。この分割決議の内容は、パレスチナの55%をシオニストに、残り45%をパレスチナ人に割り当てるものだったが、シオニストは65万人であるのに対し、パレスチナ人は100万人を超えており、不公平なものであったためである。周辺アラブ諸国はパレスチナ人を支持し、アラブ諸国の軍隊がイスラエル打倒のために介入し、第一次中東戦争が勃発した。この戦争において勝利したのはイスラエル側である。これにより、イスラエルは国連決議以上の土地を支配するにいたった。具体的には、パレスチナの約78%をイスラエルが制圧した。残りの約22%はガザ地区とヨルダン川西岸地区であるが、ガザ地区をエジプトが、ヨルダン川西岸地区をヨルダンが支配下においた。そして、多くのパレスチナ人が難民としてヨルダンに流入した。

1956年 第二次中東戦争
1967年 第三次中東戦争

 第三次中東戦争により、イスラエルはエジプトからガザ地区を、ヨルダンからヨルダン川西岸地区を奪った。さらに、エジプトからはシナイ半島を、シリアからゴラン高原をも奪った。これらの土地にユダヤ人が入植を始めた。これに対してパレスチナ人は、ヤセル・アラファトがヨルダンを拠点にゲリラを組織し、自ら戦うことを決意した。

1968年 カラメの戦い
 1968年、イスラエル軍はヨルダンのカラメという村に侵攻したが、これをアラファトのゲリラ組織が退却させた。

1969年 PLO議長にアラファトが就任
 1969年、PLO(パレスチナ解放機構)の第2代議長に就任した。

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