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死んだ恋人に会いにいく 第12話

晴天

 周囲に一切の遮蔽物がないこの家は、真夏であっても窓さえ開けておけば心地の良い風が自由に出入りする良環境なのだが、早朝ともなれば強烈な朝日までもが無遠慮に飛び込んでくる。
 敷地の東に位置するこの客間に於いて、それは家中のどこよりも顕著だった。
 ただそのおかげで、アラームの力を借りずとも目を覚ますことができた。
 布団も敷かずに畳の上で夜を明かした割には、妙によく眠ることができた気がする。
 おかげで肉体の疲労だけは、ほぼ回復することができたようだ。
 窓外そとの世界のコントラストは、もう十分に日中のそれだったが、それにしても墓参りには些か時間が早すぎる気がした。

 昨夜入りそこねた風呂にゆっくりと浸り、持参したノートパソコンで仕事関係の連絡をチェックするなどして時間を潰す。
 そうこうしているうちに、ようやく人々が営みを開始する頃合いになる。
 昨夜のうちに買っておいた墓花と線香、それに井戸水の入った二リットルのボトルを袋に入れて家を出た。
 歩いて行くには少しだけ遠く、車で行くのは大げさな気もする。
 うちの先祖代々の墓は、そんな微妙な距離感の場所にあった。

 陽炎がゆらゆらと立ち上る農道を、ただひたすら真っ直ぐに進む。
 空はこれでもかというくらいによく晴れていたが、八月の分厚い雲が時折太陽を覆い隠すほんのわずかな時間だけ、緑色の絨毯と化した田畑が瞬く間に灰色に染まる。
 少年時代にも、これとよく似た現象に遭遇した覚えがあった。
 幼かった私には、それが恐ろしいことが起こる前兆のように思えた。
 しかし、大人になった私は知っていた。
 この世界で良からぬことが起こる時には、何ら前触れなど伴わないことを。
 そんなものは無言でやってきて、無感情に人を絶望の淵から奈落の底へと突き落とすだけなのだ。

 二キロちょっとの距離を三十分も掛けて歩き、ようやくにして目的地に到着した。
 わずか七基ばかりの墓石が山を背にして並ぶこの場所に、いずれは私も骨を埋めることになるのだろうか?
 四十代中盤という破格の若さの親を持つ身としては、自身の死後のことどころか、彼ら二親に会うためにここにやってきている自分を想像することさえ難しい。
 持ってきた菊の花を墓前に手向け、ステンレス製の花立をボトルの水で満たす。
 半分ほど残った水を墓石にバシャバシャと掛けてから、仕上げに燻らせた線香を墓前に供え手を合わせた。
 最後に墓参りをしたのは、大学卒業が決まった年の秋のことだった。
 また随分と不義理なことをしてしまったものだ。
 この場所に眠っているのは顔も知らぬ古い先祖だけではないのだから、本来であればもっと頻繁に訪れるべきなのに。
 それができていないのは、ただ単にこの町と私の住まう街とが遠いからというわけではなかった。

 墓参りを終えた私に残された用事は、いよいよ荷物の受け取りのみになった。
 この町の伝統に習い開け放ったままにしていた玄関から、アブラゼミに負けない声量の「ごめんください!」が聞こえてくる。
 果たしてそこにいた宅配便の配達員から、小型冷蔵庫くらいはありそうな大きなダンボール箱を受け取る。
 配達員の彼は帽子を取ると頭を下げ、炎天の下を小走りでトラックへ戻っていく。
 その制服の背中は汗で色を濃くしており、仕事とはいえこんな真夏の只中に大荷物を届けてもらったことが申し訳なく思えた。
 まあ、私が頼んだ荷物ではないのだが。
 荷物を玄関の隅によけると、ついに私に課されていたすべてのタスクが完了した。
 あとは高畑農園に足を運び、高畑家謹製の野菜を貰って巣に戻るだけだ。
 翌日に一日だけ残す盆休みは、復路の運転で溜まった疲れを癒やすために使うつもりでいた。
 そして明後日からはまた、仕事に明け暮れる日々が始まる。
 たった二日半の滞在ではあったが、この町では本当にいろいろなことがあった。
 そのほとんどが私にとって好ましくない出来事だったが、同じ町で生まれ育った同級生を、形だけであったとしても見送ることができたのだから、有意義な休日の使い方だったと思うことにした。
 家中の戸締まりを確認すると、来た時に比べ増えも減りもしていない荷物を車の後部座席に投げ込む。
 今の私はとにかく、この居心地の悪い故郷から一秒でも早く逃げ出したくて仕方がないのだ。
 それも、あまりに惨めで情けない理由で。
 なぜ今日という日は、これほどまでに気持ちよく晴れてしまったのだろうか。
 雨でも降ってくれていたなら、少しくらいは気が紛れたかもしれないのに。

 帰り道に立ち寄った高畑の家では、実に段ボール二箱分もの野菜を貰い受けてしまった。
 奥さんは隣町の実家に里帰り中とのことで挨拶できなかったのは残念だが、次に帰省した時にでもまた顔を出させてもらうことにしよう。
 もっともこの町にはもう、よほどの理由でもなければしばらくは帰って来ないだろうから、それが何年後のことになるかはわからないが。
「いろいろとありがとう。野菜、美味しく食べさせてもらうから」
「うん。また帰ってきたら連絡してよ。道中気をつけてね」
 素行不良生徒とクラス委員長という対極に位置する関係だったゆえに、学生時代には禄に交流のなかった私と彼だが、今回の帰省でその関係性は大きく変わったように思う。
 それは互いに大人という肩書を手に入れたからだろう。
 もっとも、私のそれが仮初でしかなかったことは、昨夜のスーパーでの出来事によって辛くも露呈してしまったばかりだった。

 高畑の家を出発し、町を南北に二分する県道を東へと向かう。
 しばらく無心で走っていると、前方にある信号機の目の色が黄色く変わるのが見え、アクセルペダルからブレーキペダルに足を置き換える。
 停止線までもう五メートルといったところで、目の前の横断歩道を渡る夏服の白いセーラー服の少女の姿が目に入った。
 もし私が白昼夢を見ているのでなければ、その少女は昨日の夕方に電話を掛けてきた水守マチカで間違いなかった。
 その動きは古いタイプのゾンビのように怠慢で、異様なほどに白い肌が余計にそのイメージを助長させた。
 少女が横断歩道を渡り切ったのと同時に、目の上の信号機が灯火の色を赤から青へと変化させる。
 アクセルペダルを静かに踏み込みながら、ルームミラーに映るその姿を目で追う。
 戻って声を掛けるべきだろうかと、そんな考えが一瞬、脳裏をよぎる。
 だが次の瞬間には、それが行き過ぎた行為であることに気づく。
 言ってしまえば私と彼女は赤の他人同士なのだ。
 それにあんなことがあったばかりなのだから、顔色や足取りが普通でないのはむしろ正常なように思えた。
 あとは時間が心の傷を癒やしてくれるのを待つしかない。
 そして、それは私も同じなのかもしれない。
 無論、彼女とその家族が負ったものに比べれば、私の傷など絆創膏を貼る必要すらない、ほんの些細なかすり傷でしかないことはわかっている。

 往路とは違って景色から新鮮味が消え失せていたせいか、帰りの道中は睡魔との激しい戦いの場であった。
 Uターンラッシュ只中のサービスエリアでは、車を止める場所を探すだけでも大変な苦労を強いられた。
 こんなことなら道路が空く深夜まで待つべきだったと後悔したが、それはそれで私のような運転に不慣れな人間にとって、得られるメリット以上のリスクが予想される。
 結局、一時間ごとに一休憩というルールを自分で制定し、レンタカー屋が閉まる直前の時刻になり、何とか自分の街まで戻ってくることができたのだった。



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