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幸せの不感症。

日曜のゆるい朝
(うちは毎日ゆるいですが😅)

酒饅頭を食べながら考えていた事…

人は与えられるのと、
与えるのと、
どちらが喜びを感じるのか…

YouTubeやTikTokerの若い人達なんかは
周りから与えられることや
周りからの注目で
自分の存在意義を感じている人が多いなあと。

逆説的に考えると、

生まれた時から
自分の中に存在意義を感じていたからこそ、
それらを証明したくなる衝動が湧き上がってくるのかもしれない。
ただその存在意義たる何かは、
周りからの注目や物質的なモノで
核心を得る事はないと思う。

なぜなら
精神的に成長した魂の存在意義とは、
そうしたモノや他人からの賞賛等々には見出せず、内なる自分の中にしか存在し得ないから。

結果的にいうと、若い子達の内々に存在している精神性を自発的に体感できるような世の中ではないからこそ、
内々にあるモノを蔑ろにしてしまっているのかもしれないなぁと。

で!

話は最初に戻りますが、

与えられる事と与える事…


よくある話では、

与えなさい。されば与えられる。

でしたっけ。


けど私はこれ、
与えて欲しい時ほど与えなさい
って解釈してたのですが、

与えて欲しいから与えるってなんか違くないかい???

って思ってました😅

まあ、簡単な人脈作りには役に立ちそうだけど😅

結局、相手の隙につけこんで
与えるから与えろっていうのは
違うんじゃないかなあと。

てなると、

与えることに幸せを感じて
与えられることにも幸せを感じる


からこそ、
それが
巡り巡っていくのでは?

となると

与えたことへの賞賛を欲したり、
与えられたことへの自慢は

幸せを感じていない人がすること。

幸せの不感症


なのかもしれません🥲


幸せの不感症。

私達が今抱えている
1番大きな問題だと思いますm(_ _)m



もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)