人間は、自己中心性から自己中心性に還る生き物かもしれない
30歳になりました。
と言うには遅すぎるほど月日が経ってしまったのですが(現在31歳)、実はしれっと30代に突入しております(笑)。年齢的な一つの節目として、「30歳をどのように迎えるか」「どのように1年間を過ごすか」を考えた結果、
をテーマに、懐かしい人たちへ会いに行く1年を過ごしていました。フレッシュに考えたつもりだったのですが、20歳の節目を迎えたときのアウトプットとほぼ変わらないテーマに着地。人間の思考って、そう簡単には変わらないものですね(笑)。
なのですが、私の力不足で、感謝を伝えきれていない方がまだまだたくさんいらっしゃるので、このテーマに着地した背景を主軸に、気持ちを文字に乗せてみることにしました。
おそらく「私の生き方」に触れる内容になるので、主観が強いです。なので、「こういう考え方もあるんだな」程度にご覧いただけると嬉しいです。
誕生日は、 「ありがとう」 を伝える日になった
中学2年を迎えたある日、偶然見ていたテレビ番組で、芸能人がこう言っていました。
「誕生日=生まれた人がお祝いされる日」だと思っていた当時の私にとって、この考え方に初めて触れた瞬間、過去のある記憶が蘇りました。
死生観が強くなったこれまでの人生
私のこれまでの人生は、少しだけ、死生観が強くなりやすいものだったように思います。この30年間、いろいろな角度から生死を考えさせられる機会が多かった。
幼少期:きょうだいの半数と死別
中学:自転車でトラックと正面衝突事故
高校:クラスメイトの自殺
大学:小学生当時の私に優しく声をかけてくれたお兄ちゃんの事故死
社会人:家族が毎年一人ずつ亡くなった「魔の4年間」
そして、父の病死
最初に「人の死」に触れたのは、きょうだいの死。私が小学6年生のときに、両親から知らされました。
私には姉が一人いるのですが、「お兄ちゃんもほしい!」と、無理難題すぎるオーダーを出す私に、「実は、もう一人、姉兄がいた」と。その日の夜、ベッドに仰向けになって睨めっこした天井は、今でも鮮明に覚えています。
そう考えたら、なんとも複雑な気持ちになりました。3人きょうだいで生きてみたかった未来と、自分という存在はなかったかもしれない未来。命って、生きるって、本当に奇跡なんだなと、ちっぽけな心と頭なりに感じた結果、
そうぼそっと呟いた途端、心が決まって安心したのか、眠りについたのを覚えています。
そして、先述の芸能人の言葉を耳にしたとき、この夜の記憶が一気に蘇りました。私の誕生日に限らず、私にとって大切な方々の誕生日の重さが増した瞬間。
こうして、中学2年以降、私の誕生日は、「おめでとう」を言われ、プレゼントをもらう日ではなく、家族に「ありがとう」を伝え、プレゼントを渡す日に変えました。
ちなみに、本章の冒頭で触れた通り、きょうだいの半数と死別しているのですが、私が2人きょうだいでも3人きょうだいでもなく4人きょうだいだったと知ったのは、30歳になってから。
「実は、くみちゃん(私)の下に弟妹がいたんだけどね……」と、母から告白され、まさかそんな大家族だったのかと尊敬しました(笑)。
と同時に、娘が30歳になるまでこの事実を抱え続けた母(両親)の強さを感じ、改めて、小6のときに誓った言葉を握りしめました。
「自己中心性」 と 「自己中心的(自己中・エゴ)」
少し話は変わりますが、教育学部生時代に、発達心理学の文脈で幼児の「自己中心性」という概念を知りました。
フロイトの「リビドー発達段階理論」、エリクソンの「心理社会的発達理論」と並ぶ、3大発達段階説のひとつと言われる、スイスの心理学者ジャン・ピアジェが提唱した「認知発達段階説」に登場する概念です。
子どもの思考は大人の思考と異なるものとし、誕生~青年期の認知発達を4つの段階に分類しているのですが、ここで登場する「自己中心性」は、日常会話に登場する「自己中心的(自己中・エゴ)」とは異なる概念なので、以下の表をご参照ください。
つまり、自己中心性というのは、自己中心的や利己的といった「自己を意識する」一つの意識現象ではないということ。そして、自己の意思で、他者視点の理解深度を意識的に変えられるものではないということなんですよね。
幼児はしばしば、成人から見るとわがままや自己中と取れる行動や言動をしますが、その多くは、わがままでも自己中でもないのです。幼児は、発達が進むにつれて脱中心化し、他者の視点も理解できるようになります。
そして、この自己中心性は、老化が進むにつれて再発するのではないか、と個人的に感じる出来事がありました。
互いを思い合える意識状態でいられるのは、奇跡に近い
父方の祖父母は、認知症でした。特に祖母は、実の息子(私の父)や孫(姉や私)を認知できなくなり、晩年は、気に入らないことがあると、家族であっても誰彼構わず手を挙げるようになりました。
一方、母方の曽祖母は、100歳を超えるまで生きた長寿で、亡くなる直前まで認知がはっきりしていました。自己認知できるが故に、自分の身の回りのことさえも日に日にできなくなる自身へのもどかしさや、お世話してくれる周囲への申し訳なさが積み重なったようで、「長生きなんかするもんじゃない」と言うようになりました。
そして、「ありがとうね」よりも「ごめんね」と発する頻度がだんだん増していきました。そんな曽祖母に、「ごめんねじゃないよ、ありがとうでいいんだよ」と伝える家族。
そんな両極端な老後が身近にあったことは、「自己が自己の意識下にあり、他者を思う余白を持って行動できる残時間」をより具体的に考える機会になりました。
さまざまな場面で耳にする機会の多い言葉です。とても素敵な願いだなと思う一方で、個人的なこれまでの経験上、これらの願いを実現することは極めて至難の業であり、奇跡に近く、だからこそ尊い願いなんだろうと感じています。
認知症だった祖父母の状態は、自己中心的ではなく自己中心性に限りなく近く、本人たちの意思で本人たちの意識や行動を変えることは不可能でした。「ありがとう」や「感謝」は、自己ではなく他者にベクトルを向けた感情ですが、自分が亡くなるまで「他者を思える自分でいられる」保証など、どこにもないんですよね。
誤解のないようにお伝えすると、認知症という症状をネガティブに思っている意図は一切なく、祖父母の晩年を否定しているものでもありません。
また、自己認知がはっきりしていても、老化や急な病気に伴って身体能力が衰えることはやむなく、曽祖母のように「他者を思って行動したくてもできない」場面もあります。
その逆も然りで、思いを伝えたい相手がずっと今の状態のままいてくれるとは限らない。それこそ、ただの自己満足です。だから、お互いがお互いを思い合える状態にある人が近くにいることは、偶然に偶然が重なった奇跡なんだと思います。
もし、人間が、自己中心性から自己中心性に還る生き物なのだとしたら?他者という存在を相互に理解しながら思い合って過ごせる期間は、そう長くないのかもしれません。
後悔したくないから、今言う。今やる。今会いに行く。
こんな人生を歩み、こんな考えを持つ私なので、「あのときこうしておけば」と、未来の自分が後悔しそうな状態を自ら作り出すのが嫌です(笑)。
その結果、どんどんフッ軽になり、どんどん伝えるようになり、ついに前職では、社長から「ありがとうおばさん」と呼ばれる始末(笑)。
いつか、思いを伝えたくても伝えられない日が来る前に、今言う、今やる、今会いに行く。20代は、10代までと比べ物にならないほどコミュニティが広がり、多くの方に支えていただいたので、
という私の完全エゴテーマな1年を過ごしました。「青木がプレゼントを持って突撃訪問してくる」という理解不能なシチュエーションに困惑しながらも、寛大な心で付き合ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。(感謝したいことが永遠に増える。笑)
この1年を過ごして、どれだけたくさんの方に支えられて自分という人間が成り立っているのか、改めて実感する機会になりました。最高のプレゼントです。
死してなお、 「感謝」 が人をつなぐ
私にとって、家族は一番尊敬に値する人たち。特に、祖父と父は亡くなって十数年、数年経ちますが、現在も彼らへの感謝を伝えに実家やお墓を訪ねてくださる方がいます。
1,000名弱の方が参列くださった父の葬式。想定を上回る人数で、式場から溢れ出てしまう方もいらっしゃいました。それだけでも大変ありがたいことなのに、父の死後、月命日に必ずお墓参りをしてくださる部下の方がいます。
我々家族が気を遣わないように、何も言わずに、花立から溢れんばかりのお花を供えて。父の死からそろそろ4年が経ちますが、毎月、欠かさず片田舎の山奥まで足を運んでくださります。
言うまでもなく、私は、祖父や父、父の部下の方の足元にも及ばない行動や言動しかできていません。比較するものでないのは重々承知ですが。死してなお、「感謝」というものが人をつなぐ実感を持ちつつ、命あるうちに、伝えたい人に伝えたいことをできる限り伝えていきたいと思います。
さいごに
まだまだお会いできていない方だらけなので、私から急にメッセージが届く方もいらっしゃるかもしれません。「青木のエゴに付き合ってやってもいいかな」と思われる方は、ぜひ前向きにご検討いただけると嬉しいです。
そして、皆さん引き続き健康でお過ごしください!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?