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#ネタバレ 映画「マイ・バック・ページ」
「マイ・バック・ページ」
2011年作品
良心からの慰めは効く
2011/6/20 16:24 by さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
毛沢東とチェ・ゲバラでしょうか。ポスターが、梅山のアジトに貼ってありました。彼らは極東の島国で、見知らぬ男に指導者として崇められることになるとは夢にも思わなかったでしょう。彼らの理念を正確に理解していたかどうかは知りませんが、梅山は彼らに心酔し、破滅の道を歩むのです。
一方、記者の沢田は、ウサギ事件でタモツの男気に心酔していました。タモツは商品のウサギが死んだ責任のため、元締めたちから暴力を受けましたが、梅山のことはひと言もしゃべらなかったからです。
この事件は沢田の心に自己嫌悪とともに深く刻印され、以後、無意識のうちに彼の行動理念の基調低音になったようです。映画の後半、ウッド・ベイスがブルン、ブルンと鳴ってるのは、その鼓動であり、伊達ではないのでしょう。しかしタモツも沢田も、それに気づいてはいないのです。
沢田は梅山の事件では、最後まで、ひとりで彼をかばいます。せっかく東大まで出たのに、一流新聞社に入ったのに、人生を棒に振ってもかばい続けたのです。
警察からは共犯扱いされるし、新聞社からも、一線を踏み外して犯人に心酔していると思われるし・・・本当に自分はバカなのだろうか・・・何か少し違う気もするけれど・・・自分で自分が分からない。
孤立無援の中、彼は自問自答を繰り返し、またもや自己嫌悪の中にいたのです。
後日、事件の責任を取り沢田は退職します。そして失意の中、その日暮らしの様な日々を送っていたとき、偶然入った小さな居酒屋で、店主となっていたタモツと再会するのでした。
神の導きか、驚く二人。そして、ひとしきり挨拶を交わしたあと「あの頃はいちばん楽しかったなぁ!」というタモツの話に、沢田は突然、雷に打たれたように気づくのです。
( そうか、そうだったんだ。わかったぞ。あのとき自分はタモツの男気に心酔していたんだ。タモツの様に生きたいと、心の奥底で、あの時、願っていたんだ。今回の事件で結果的に自分は人生を踏み外したが、それは自分が世間知らずだったからで、タモツの様に生きたい、という考え自体は間違ってはいなかったんだ。自分の人生の基本理念は間違っていなかったんだと。)
そう気がついたとき、沢田は、自分の良心からの慰めの声、を聴いた様な気がして、抑えていた涙が急に溢れてきたのでした。これが「きちんと泣ける男の涙」なのでしょう。もう沢田は吹っ切れました、驚いて「どうしたの?」というタモツの声に、晴れやかになった心で、思わず笑みを返した沢田でした。タモツは知りませんが沢田にとって彼はメンターです。
ところで「きちんと泣ける男の人が好き」と沢田に言ったモデルの眞子は、初対面から直感で沢田の心根を見抜いていました。そして沢田が退職する日にも逢いに来ました。事件の噂を聞いて沢田の姿勢にますます共感したからです。
その後の眞子は20歳を過ぎて亡くなります。映画では理由は省略されているようです。でも、映画の文脈から解釈すると自殺になるのでしょう。眞子は沢田の事件での姿勢を見聞きして彼を尊敬し、密かにメンターとしたのです。しかし、そのピュアな生き方を持つ若い美女は、まもなく汚い世の中の餌食になったのでしょう。
彼女もまた沢田と同じくまだ未熟な面があり、ロマンチストすぎたのでしょう。人生に対しては「強烈なリアリストであり、同時にロマンチストであることを放棄しない生き方」が必要なのかもしれません。これは名言「タフでなければ生きてはいけない、やさしくなければ・・・」にも通じますね。
若者や学生だけでなく映画ファンもロマンチストの記号で、実社会、新聞社、自衛隊はリアリストの記号でしょう。
良い映画でした。沢田が泣くシーンは名シーンだと思います。
★★★★★
追記 ( バイトの皮を着た狼 )
2011/6/23 6:19 by さくらんぼ
二日酔いが醒めぬ内に、もう少し書いておきます。
一流会社にアルバイトに来る若い女子の中には、ついでに彼氏も見つけようと企んでいる娘もいます。
そんな娘にとって、一流大出の若くてカッコよい独身男は絶好の餌食になります。もちろん性格がミスマッチではダメですが、沢田から伝わってくるサムシングは合格だったのです。
あの時、沢田が眞子を恋人にしておけば、眞子の悲劇は防げたのかもしれませんが、沢田にとって恋人にするには微妙にミスマッチだったのでしょうね。世の中はうまくいかないものです
追記Ⅱ ( 居酒屋クリニック )
2011/6/23 9:55 by さくらんぼ
「悩みがあるとき、金持ちはカウンセリングを受けるが、庶民は酒場のオヤジに相談する」とか、申します。
その意味からも、タモツが居酒屋の店主に納まっていたのは、沢田にとって、この上ない幸せな構図でした。これから、ちょくちょく、沢田はタモツの店に顔を出すことでしょう。
もしも、もっと早く、政治犯か否かを社内でもめている時か、遅くとも、まだ沢田が警察の事情聴取を受けている頃に、タモツと再会していたらどうだったでしょうか。
沢田が新聞社の内部情報をむやみに他言することは無いでしょうが、仮に、もしも、タモツに相談していたら・・・。
きっとタモツは、低い声で、ひと言「それ、違うやろう」と、梅山をかばいたい沢田を諌めたのではないでしょうか。幾多の修羅場をくぐりぬけてきたらしいタモツなら、ヤバイ臭いは本能で嗅ぎ分けることが出来たかもしれないからです。
追記Ⅲ ( 自己の帰属が主張を決める )
2011/6/23 10:34 by さくらんぼ
私は本文のタイトルを「良心からの慰めは効く」と書きました。これは私同様、なぜ沢田は泣いたのか、が多くの人の疑問だと思ったからです。それに対する私なりの答え、のつもりでつけたタイトルでした。
また、それは沢田のクセである、自己嫌悪、の対極にある心境、でもあります。人間、自己嫌悪をしているうちには幸せになれませんが、自分で自分を受け入れることが出来れば幸せになれるのです。映画「八日目の蝉」で、主人公の薫がラストで流した涙も、ある意味これに似ていたのかもしれません。
では本題である「マイ・バック・ページ」の主題は何だったのでしょう。私は「自己の帰属が主張を決める」とでもなるのではないかと思います。先輩記者が「新聞記者である前に男だ」と美女の写真を喜んで見ていましたが、まさに、これがキーワードなのです。
では、これにそって沢田の行動の是非を解釈してみます。究極の話になりますが、もしも戦争が勃発した時には、客観的に見て、どちらの国の主張が正しいか、などと各々が議論することとは別に、今、自分が帰属している国(普通は国籍で決める)の味方します。それで敵味方が単純に選別されます。
ひるがえって新聞記者の沢田は今どこに帰属しているのか。それは新聞社であり、それ以前には善良なる市井の市民です。間違ってもに過激派の梅山には属してはいません。
ならば究極の選択を求められた時には新聞社の方針に従うべきなのです。梅山をかばって己まで破滅してはいけない。
逆に言えば、それでも梅山をかばうならば、梅山の仲間だと周りに認定されても文句は言えません。もしも、新聞記者である以前に、善良な人間である前に、梅山の仲間だと思うのなら、ここで彼を捨てない選択もあるかもしれませんが。
そんな風に映画は語っていたようです。
自分は今どこに帰属しているのか、あるいは帰属していたのか。定年退職した人がハタと気づくぐらいで、普段は意識していないことですが、事が起こったときには、意外と重大なことになるのだと思います。
この映画は過激派と新聞記者という、なにやら小難しそうな題材扱っていましたが、言わんとしている事は、もっとシンプルな、人としての生き方の事だったのでしょう。タモツが仲間である沢田をかばったように。
追記Ⅳ ( 履歴書 )
2011/6/29 21:42 by さくらんぼ
PCになってタイピングだけで綺麗な文字が書けるのは嬉しいものです。もちろん私の、誤字や稚拙な文章自体は隠しようも無いですが、悪筆が隠せますし、辞書を引かなくても良いメリットもあります。
ところで「マイ・バック・ページ」の中ではキリストと呼ばれる男が一所懸命に履歴書を書いているシーンがありました。
基本的には履歴書は自筆で無ければいけないと思います。その筆跡から性格判断までされるからです。さらには漢字からは教養審査もされるのでしょう。それを心配した沢田がキリストに漢字を教えてあげるシーンもありました。
映画ではオマケの様なシーンほど「それでも描いたという事で、かえって意味深長なもの」です。
もし、あの履歴書のシーンが映画の伏線回収でもあったとしたら、回収された伏線とはいったい何だったのでしょう。
それは、映画で大学の壁に書かれていたスローガン文字である可能性があります。なんだか、お遊び的な筆跡、もありましたから。本当にあんな文字が当時に書かれていたのかどうかは知りません。しかし、現実であれ、創作であれ、ドラマに登場させたこと自体で、新たに意味が発生しているのです。
もしも、リアルな社会の履歴書であの文字を使ったら減点対象でしょう。そこに学生は気づいていない。あの東大の壁文字は、そんな学生のロマンチズムをシンボリックに表現したものだったのかもしれないと思うのです。それを無学なキリストによって回収させるシナリオは皮肉たっぷりなものでした。
蛇足ですが、この映画の深層を流れる中心的な伏線回収は、ラストで沢田とタモツが絡むシーンです。ウサギ事件がキーとなる事件である為ですね。
追記Ⅴ ( 履歴書つづき )
2011/7/1 9:34 by さくらんぼ
若者や学生だけでなく映画ファンもロマンチストの記号で、実社会、新聞社、自衛隊はリアリストの記号でしょう。
履歴書とは「おまえは何者なんだ」という問いに答える書類だと思います。この問いは、映画の中では形を変えながら繰り返し出てきます。一例を挙げます(文言は正確ではないかもしれません)。
教室で「それで、お前はいったい何がしたいんだ」と問い詰められた梅山が答えに窮し「お前は敵なのか?」と発しました。それに梅山は偽名も使っています。
眞子は沢田の顔を覗き込み「私は普通?」と発しました。もっとも、これは(普通じゃイヤ。私をあなたのスペシャルにして!)とのラブ・サインの疑いがあるので、ダブル・ミーニングかもしれませんが。
新聞社の先輩は「俺は新聞記者である以前に男だ
」と、そして「梅山は偽者だから手を退け」と発し、上司は沢田に「なんだ、このはねっ返りは」と発しました。
そして沢田は新聞社と梅山の間で悩みます。(自分は誰の味方をするべきか)と。
それに在学中から学生運動で完全燃焼した先輩と比べ(もう就職だというのに自分は何者にもなっていない)という焦りもあるでしょう。
彼らはすぐに飛躍したいと思っていた。これはマイ・ページに書いた言葉の様に「飛躍したいという気持ちは破滅の前奏曲である」に陥った人たちの物語でもあったのです。
そして「おまえは何者なんだ」という問いかけは、多くの学生が就職するころに発するであろう「自分探し」の問いかけであるわけです。これが、この映画の普遍性に貢献しているのでしょう。
追記Ⅵ ( 自分は何者なのか )
2011/7/1 10:20 by さくらんぼ
自分探しは少なくとも2回あると思います。1回目は学生が就職する頃でしょう。2回目は仕事をリタイアした後です。
そもそも本当の自分って一体なんでしょう。自分のことは自分が一番良く知っている、と思っていても、その個性の一部は、生まれながらの個性ではなく、親御さんの育児によって作られた創作物である疑いがあるのです。
映画「八日目の蝉」(ある意味、自分探しの映画)ほど極端ではないですが、親御さんが良かれと思って行ってきた育児によって、無垢な子供が有無を言う間もなく、染められてしまう事は珍しくないようです。
無垢な自分は本当はどんな個性の持ち主だったのか。まだ親の影響下にある若者がそれを捜すのは難しいかもしれません。また、就職してからは仕事が忙しくてそんなことまで気にする余裕は無いでしょう。そして間もなく、こんどは自分が親になる育児が始まります。
そして、ふと気がつくと、まもなく定年を迎えるのです。定年になると、これまでの前半生を振り返り、これからの後半生を想います。毎朝、野鳥よりも早く起き、まだ薄闇の中、早起き鳥たちの、朝の挨拶を待つようになります。
それぐらいの、ゆとりの時期になり、初めて(自分は何者なのか)を真に問うことができるようになるように思います。うまく行けば、それが解けて、無垢の自分!?に出会うことが出来ます。そして本当の意味での第二の人生を始めるのです。
追記Ⅶ ( エリックの言葉 )
2011/7/2 6:45 by さくらんぼ
>彼らはすぐに飛躍したいと思っていた。これはマイ・ページに書いた言葉の様に「飛躍したいという気持ちは破滅の前奏曲である」に陥った人たちの物語でもあったのです。
マイ・ページは更新することもありますので、何のことだか分からなくなるといけませんから、こちらにも掲載しておきます。
それにしても映画を観てつくづく思うのは、登場する若者たちの稚拙な行動です。やはり最高学府の学生ということで、ある種の驕りが有ったのでしょうね。
・・・・・・
「 成長できない者にかぎって、飛躍したがるものである 」
(エリック・ホッファー)
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)
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