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ランドリールームにて

 大浴場の方ですが、夜は二十三時まで、朝は六時からとなりますので。フロントの中年男はそう言ってルームキーを差し出してきた。カウンターの向こう、男の背後にある時計を見ると、ちょうど二十三時になったところだった。あの、もう無理ですよね、お風呂って。ダメ元で聞いてみると、男は振り返って時計を見て、二十三時でることを確認した。あ、まだ大丈夫ですよ、閉めてないんで、ささっとお願いしますね。どういう理屈なのかはわからないが、大丈夫とのことだったので、俺は部屋に荷物を置くと、すぐに風呂に向かった。大浴場、といえば聞こえが良いが、都心にあるビジネスホテルに相応しい、大したことのない風呂だった。もちろん温泉ではないただのお湯だし、このくらいの風呂ならば、さっきフェリーの中で入ってきた。なんならフェリーの方が湯船も洗い場も広かったし、海と空を見渡せる露天風呂も完備されていた。入っても入らなくてもいい気はしてきたが、部屋にあったトイレと一体型のユニットバスを思い出し、足を伸ばして湯船に浸かれるだけでも悪くはないような気がしてきて、入ることにした。浴室内に入ると、塩素のような香りが漂っていて、湯船には髪の毛と白い細かな汚れのようなものが浮いていた。湯垢だったら気持ちが悪いなと思いながら指先で掬うと散るようにして消えたので、その白い汚れのようなものは湯垢や汚れではなく、気泡だということが分かったが、いずれにせよあまり綺麗なお湯には思えず、なんだか入る気が失せた。シャワーで体を流しながら、湯につかろうかどうしようか再度検討したが、結局入ることにした。塩素たっぷりのお湯だな、とやや自虐的な気持ちになりながら、恐る恐る体を湯船の中に沈める。昔実家で金魚を飼っていたことがあって、金魚が病気になったときに、それが何%だったかはわすれたが、数%の濃度の塩素水を用意して、病気を治すためにその中に金魚を入れたことがあった。温泉やプールに塩素が入っていると、上がったあとに体が塩素臭くなったり、肌への刺激があったりして、嫌だと思いがちだが、塩素がなかったころは公衆衛生的に色々と問題があったわけだし、そう思うと、塩素の湯、も悪くないのかもしれないという気がしてきた。浴室内に漂う塩素の香りとは裏腹に、お湯そのものは思うほどには塩素臭くはなかったし、浮いている髪の毛に目を瞑れば、取り立てて汚いというほどのお湯でもなかった。もう閉まる時間なわけだし、多少汚れていても仕方がないとは思ったが、そうえばさっきネットで事前に調べたときに二十五時まで入浴できると書かれていたのを読んだような気もした。以前は二十五時までだったのがいつからか変わったのだろう。フロントの中年男の話によればもうじきに閉まることになっているし、あまり長湯しても仕方がないと思い、さっさと上がることにした。ロッカー室に出て体や髪を乾かしていると、しばらくして、ワイシャツの若い男がスーツの裾をまくって入ってきて、浴室の片付けをし始めた。脱衣室には個室サウナが3つほど設置されていて、電話ボックスよりも少し広いくらいの空間の中で汗をかくことができる仕組みになっていたが、どれもドアがテープでとめられていて、コロナを理由にした休止中であるということが書かれていた。そういえば、フェリーの浴室にもサウナが完備されていたが、コロナを理由に当面の間閉鎖すると書かれた紙がドアに貼られていた。そこいらの銭湯だってふつうにサウナに入れるようになっているし、そろそろサウナを復活させてもいいのではないだろうかとは思うが、複数人で入る仕様のフェリーはさておき、ひとりで入ることを想定しているこのホテルの浴場の個室タイプのサウナがなぜコロナで休止しなければならないのかはよくわからなかった。理由というよりももはや口実なような気がしたが、サウナに限らず、コロナをきっかけに、やめたかったサービスを提供中止した事業者はたくさんいるような気がしてならない。洗面台に置かれたドライヤーは、側面に大きな文字でホテルの名前のシールが貼られていて、持ち出されることに強く抗おうとしている姿勢が感じられた。ふと、脱衣室に柔らかで甘い香りが充満していることに気がついた。入ってきて服を脱いだときにはしていなかったのだが、どこか懐かしい、不思議な香りだった。部屋に戻ろうと窓下を歩いていたら、ランドリー室があって、匂いの発生源がそこだということはすぐにわかった。乾燥機が大きな音をたててまわっていた。最近、自宅の近くにもちょうど二十四時間営業のコインランドリーができて、昼夜を問わず、この匂いがあたりに漂うようになった。洗濯物が乾くときに発生する柔軟剤や洗剤の匂いで、まじまじと嗅ぐとややキツい匂いだったりもするし、別にいい匂いだとは思わないが、不思議な懐かしさのようなものを感じてしまうことがある。暗くなり始めた家路を辿るときに、住宅の換気口から漂ってくる誰かがシャンプーをしているときの匂いと似たものがあるかもしれない。なぜ懐かしく感じるのかはよくわからないが、そこに誰かがいる、誰かが暮らしている、という証に、妙な安心感を感じた子供の頃の記憶と関係があるのかもしれないというような気はする。思えば、コインランドリーというものをあまり使ったことがない。昔、大学生の頃に一人暮らしをしていた頃だって部屋に洗濯機はあって、洗った衣類は室内で干していた。いまの家にはドラム式の洗濯乾燥機があって、放り込んでおけば乾燥までを全て自動でしてくれる。ドラマとかでコインランドリーで洗濯が終わるのを待つ、というような描写をみたことがあるが、コインランドリーで洗い上がりを待ったという記憶も特にはない。ランドリー室には洗濯機と乾燥機の組み合わせが三機、漫画雑誌が入ったラック、ベンチがあった。顔も名前も知らない誰かの洗濯物が音を立てて乾燥されているのを見ていて、ふと、ランドリー室に座って洗濯が終わるのを待ってみたいような気がしてきた。漫画とベンチがあったのも魅力的だった。雑誌は、ビッグコミックオリジナルとビッグコミックスピリッツがあった。ときどき行くラーメン屋でたまに読むくらいしか読まないが、ビッグコミックオリジナルはいくつか好きな作品が載っているので、何も考えずに手に取った。それこそ、そのラーメン屋に行った時くらいしか読まないのだが、作者の努力の結晶である作品たちは、ついつい引き込まれて読み進んでしまう。黄昏流星群は過去の自分に会いに行く話だったし、深夜食堂は味噌と卵を使った青森の料理の話で、三丁目の夕日は引退したボス猫の話だった。めぼしい作品を拾い読みして、それから別の号のビッグコミックオリジナルを同じようにひとしきり読んで、ビッグコミックスピリッツを手にとって、正直不動産を読み始めた時だった。廊下の方から足音が聞こえてきて、さっきの浴室を掃除していたホテルの従業員が戻ってきたのだろうかと思っていたら違って、ホテルに備え付けられている妙なパジャマに身を包んだ若い女がランドリーの入り口に立っていた。会話をしたわけではないのでわからないが、顔立ちからして、日本人ではないのかもしれないというような気がした。もしかすると日本人なのかもしれないが、アジア圏のどこかの国の人なのではないだろうか、というような印象だった。他の洗濯機や乾燥機は動いていないのは明らかなわけで、女は戸惑ったような表情で俺を見たが、女が通りやすいように俺が体の向きを変えて身を避けると、女は乾燥機の前まで歩き、俺に背を向けて、洗濯機から服を取り出し始めた。ホテルに備え付けられたパジャマは、どういうわけか、着ている姿が、なんだか滑稽に見えてしまう。きちんとした、つまり、宿泊費用がそれなりに高価なホテルや旅館には、浴衣やバスローブが備え付けられている。ワンピースのような形のこの独特な部屋着は、ラブホテルやビジネスホテルにあることが多い。その女がアジア圏のどこかの出身ではないだろうかと思った理由のひとつに、日本人の女なら、あまりこのパジャマで廊下を歩き回ったりはしないのではないだろうか、と思ったというのも少しあったが、別に日本人の女だって、ホテルの変なパジャマを着て廊下を歩くことはあるだろうし、それだけではなんとも言えないが、とにかく、妙な形のパジャマを着た女が、俺の前で洗濯物を乾燥機から取り出していた。女がやや前のめりな姿勢になるたびに、尻のあたりに下着の色と形が浮かび上がる。手を伸ばせば触れそうになる距離に黒いショーツに包まれた女の尻があると思うと、べつに性慾が溜まっていてムラムラしていたというわけではないが、なんだか妙な気持ちになった。手を出したり、襲ったり、そういうことをしたいと考えていたわけではないが、しようと思ったらそういうことをし得てしまう、というシチュエーションに、なんだか緊張した。女が動くたびに浮かび上がるショーツのラインから視線をおろすと、女はホテル備え付けのペラペラの茶色いスリッパを素足のまま履いていた。できれば早く立ち去って欲しいと、ランドリーを利用しているわけでもないのに待ち合いベンチで漫画を読んでいる分際ながら、胸の中で願っていたが、乾燥機の奥まで手が届きにくいのか、女が洗濯物を取り出し終わるのにはずいぶんと時間がかかった。ホックやバンドは浮かび上がらないので、ブラはしていないのかもしれない。あるいは、カップが内蔵されたブラトップのようなインナーを着ているのかもしれない。凝視しないように気をつけながら、ちらちらと視界に入る女の背中を俺は見ていた。洗濯物をしまう袋は持ってきていないようで、靴下などの細かいものを落とさないように、女は取り出した洗濯物を腕のなかに抱え込むようにして持っていた。古ぼけた洗濯機と乾燥機が並ぶランドリー室は、白々しい蛍光灯に照らされている。


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