哲学者Aと哲学者B

(2017年「京都大学総合人間学部広報」に掲載)

時間学研究所という珍しい研究所が山口大学にあり、そちらから着任して数ヶ月が経ちます。私はこれまで哲学の分野にて、時間・自由・言語などについて研究してきました。分析哲学の入門書を出版していますが(『分析哲学講義』ちくま新書)、分析哲学という分野に特化した研究者とは言えず、自分自身も、特定の分野にとらわれない「たんなる哲学者」でありたいと願っています。近年の研究内容については、『時間と自由意志:自由は存在するか』(筑摩書房)、『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(太田出版)等の拙著をご覧下さると、具体的なテーマやスタイルを知って頂けるのではないかと思います。

ところで、いま私は「哲学者」と書きましたが、じつのところ、大学にいる哲学の研究者が「哲学者」と自称することはあまりありません。物理学の研究者が「物理学者」と、社会学の研究者が「社会学者」と……自称したりするのに対し、哲学の研究者は自分のことを「哲学研究者」のように名乗る傾向があるのです。

これはおそらく、「哲学者」という呼称が対照的な二つの意味合いをもつことによります。この呼称は、学問としての哲学と乖離した意味でもよく使われ、学問としての哲学をきちんと修めてきた人ほど「哲学者」と名乗るのを恥じるというのが一つ目。もう一つは、哲学者とは哲学史に名を残す著名な先人を指すのであって――たとえばプラトンやデカルトのような――彼らの文献を紐解いて研究しているわれわれが「哲学者」と名乗るのはおこがましいといった意味合い。

この感覚は私にも分かります。雑誌などに寄稿する際、編集者が私の肩書きを「哲学者」と記すことがありますが、ゲラ(出版前の校正刷)の段階でそれを見つけたときは、たいてい直してもらってきました。哲学研究者のかたのなかには、同じ経験の持ち主も多いでしょう。

しかし数年前、同じような修正の機会において、ふと、直さなくてもよいのではないかと思い、それからはこの修正にあまりこだわらなくなりました。世間はそんな呼称の違いをとくに気にしていないという事実はさておき、「哲学者」と呼ばれるのをいつも訂正するような姿勢で哲学の研究を続けることを、私は個人的に止めたくなったのです(これは個人的な思いですから、他のかたの判断には異存ありません)。

先述した二つの「哲学者」のうち、学術的に軽んじられるほうを「哲学者A」、重んじられるほうを「哲学者B」と呼ぶことにしましょう。自分自身が哲学の文章を公にするとき、「哲学者」と呼ばれるのを固辞しておけば一種の安全が得られます。哲学者Aと同じ「素人」として扱われることを避けられますし、哲学者Bと同じ土俵に立とうとする不遜な者と思われることも避けられます。

しかし、哲学の文章を書くことは、先人から多くを学びながらも徒手空拳の部分を含み、素人っぽさと手が切れません。そして同時に、上手下手を無視するなら、それはまさに哲学者Bと同様の営みに参加することでもあります。哲学者Bと同じ土俵に立とうとすることは、不遜というより、そこから哲学者Aと同じ場所へ――書いたものの内容によって――突き落とされる覚悟をもつことなのであり、そのようにしてしか取り組めない哲学の研究がたしかにあるのです。

この観点から哲学史を見ると、哲学者Bの多くが素人っぽさを維持し続けていたことが分かります。そして、もちろんこのことは、彼らの多くが哲学史の優れた研究者でもあったことと矛盾しません。哲学をこれから学ぶかたは、矛盾しないこの両側面にぜひ目を向けて頂きたいと思います。

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