幸せで、それを知っているなら

(「群像」2010年3月号に掲載)

哲学者のトマス・ネーゲルはこんな話を書いている。――聡明な大人の男性が頭に怪我をし、幼児のような精神状態になってしまった。しかし彼は満ち足りた「幼児」で、みんなに優しく世話をされながら、食べたいときに食べ、遊びたいときに遊んで暮らす。彼の心の中だけを見るなら、幸福感に包まれている。

それでも私たちはふつう彼を不幸だと思うだろう。それは、いったいなぜなのか。ネーゲルの答えはこうである。聡明な大人として生きられたはずの彼は、さまざまな幸福の可能性を奪われている。だからこそ彼は不幸なのである。現在の彼の認識のみでは、彼が幸せかどうかは決まらない。「幼児」としての現実が、どんな可能性を背景に成立しているかが重要となる。

私はこの話を読むと、英語で歌われた「幸せなら手をたたこう」を聴いたときのことを思い出す。この歌はもともと外国の歌で、英語詞は日本語詞と少しだけ違う。「幸せなら手をたたこう」ではなく、「幸せで、あなたがそのことを知っているなら、手をたたこう(If you're happy and you know it, clap your hands.)」という歌詞なのだ。

英語の言い回しとしては、この「知っているなら」に深い意味はないだろう。メロディに歌詞を合わせるためのおまけの一節に違いない。それでも日本語詞に慣れた耳でこの英語詩を初めて聴いたとき、私はちょっと戸惑った。子どものころから知っていたあの歌が、まったく違う歌に聴こえたからだ。

この英語詞を直訳的に聴くなら、あなたが幸せであることと、それを知っていることは切り離されている。さきほどのネーゲルの話のように、あなたが幸せであるかどうかは本人の認識と別に決まっているわけだ。哲学風に言えば、幸福実在論である。反対に、幸せとは幸せを認識することだと考えるなら、それは幸福観念論である。

実在論的に英語詞を聴くと、「幸せなら態度で示そうよ」の一節が重苦しい。幸せなあまり浮かれて手をたたくのではなく、手をたたかされている感じがするのだ。そして、じつはこの歌はそういう歌なんだという気になってくる。知っているなら手をたたけ、というのは本当は、手をたたくことによって知れ――知ることによって幸せになれ――ということなのだと。

ここにおいて幸福実在論は、実在論であるからこそ観念論化する。はじめから観念論であった場合よりも根の深い観念論になる。幸せであることとそれを知ることの切断によって、幸せだと知ることで幸せになる道が開かれるのだ。こんな道は本来ないのだが(幸せだから幸せだと知るのであってその逆ではない)、ネーゲル的幸せについてはそうとも言えない。というのもネーゲル的幸せは、何が可能だと信じているかに全面的に依存した幸せだからだ。

「幼児」に退行した彼は、なるほど、聡明な大人としての幸福の可能性を奪われたように見える。だが一方で彼は、聡明な大人としての不幸の可能性も奪われているはずだ。このとき、幸福と不幸のはく奪の収支がプラスなのかマイナスなのかは、本当のところ、よく分からない。私たちは、何となく共有している確率的直観に基づいて、それはマイナスだ(不幸だ)と判断している。

だからネーゲル的幸せに関しては、今この瞬間の現実の背後にどんな他の可能性を見ているのかが、決定的に重要である。そこにさまざまな不幸の可能性を見る人は、可能性との対比において今自分が幸せであることを知り、それを知ることで事実、幸せを感じることがありうる。たとえ今、幸せを感じていない人であっても、ネーゲル的に幸せだと知ることで幸せを感じられるのである。そうでなければ、難病患者のドキュメンタリー番組があれほどたくさん作られたりはしない。

他人の不幸を見ることで元気づけられる場合があるのは、人間が邪悪だからというより、「手をたたかされる」からである。他人の不幸を自分自身の不幸の可能性として見るからである。その他人が自分に似ていれば似ているほど、不幸の可能性は身近なものになり、ネーゲル的幸せは増すだろう。「あれほど自分に似ているなら、私があの不幸を被っていたかもしれない(私は幸せだ)」

この心理が反転したのが嫉妬で、異人種よりは同人種、異性よりは同性、年上よりは同世代に対してより強く嫉妬しやすいのは、相手が自分に似ているからである。本当は全然似ていない――努力も才能も――かもしれないが、嫉妬している本人は似ていると感じるからである。「あれほど自分に似ているなら、私があの幸福を得ていたかもしれない(私は不幸だ)」

さきほど私はこう書いた。ネーゲル的幸せについては、幸せだと知ることで幸せになる道が開かれると。これは人間の驚くべき能力(あるいは病気)である。人間は、現実の背後にさまざまな不幸の可能性を見ることで、現実そのものは何ひとつ改善されていなくても、本当に幸せを感じることができる。空中から現金を取り出すように、物質的には何もないところから幸福感を作り出せるのである。

この能力がある以上、ネーゲル的幸せは偽りの幸せだ、とは言えない。幸せなあまり手をたたいてしまうような幸せからは遥か遠くに来てしまったが、ネーゲル的幸せもまた幸せである。それをうまく育ててやれれば、ネーゲル的に幸せなあまり手をたたくところまで行けるだろう。

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