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連続と包摂と矜持 ~TVドラマと政治ドラマから考える~

(起)

いきなりの変化球な話題で恐縮だが、今シーズンは、何と5つの記憶喪失もの(記憶を短期的・長期的に失う人物が出てくる作品)のドラマが放映されているそうだ。全て見ているわけではないが、暇な時間には何となく色々なドラマを眺めている私も、確かに多いと感じているところだ。

その原因について勝手に思うところを書けば、「何となく将来に夢や希望が持てないうちに、頑張ってはいるものの人生の結構な時間を漫然と過ごしてしまった」という悔悟の念に満ちた人が多いという世相を反映しているのか、「過去は過去と割り切って、新たな道を行くことが出来るんだ」というインプリケーションを入れ込んだストーリー展開に惹かれる人が多いのかもしれない。

勝手ついでに、こうした記憶喪失系ドラマが、最終回に向けてどのようなメッセージを発していくのかということも大胆に?予想してみる。おそらく、「切り離した(忘れた)と思っていた過去も実は現在と繋がっている。捨てたいと思ったような過去、意味がないと思われた過去も、実は愛しい記憶の一つであり、自分の“かつて”も自分の大事な要素なので、全て抱きかかえて生きて行こう」ということなのではないかと思う。

こう書いてしまうと陳腐であるが、過去と現在と未来の連続性は、昔から様々な芸術作品のテーマになっている命題でもあり、「峻別しているつもりでも、実は繋がっている・連続している」というのは、いわゆる「縦の民主主義」を唱える作家・詩人のチェスタトンを待つまでもなく、恐らく人類の真実なのだと思う。大事な考え方だが、ただ、実践は意外に難しい。

(承)

どうでも良いドラマ関連の話をもう一つ挟むと、最近、やたらと「こうたろう」が目に付く気がする。小泉孝太郎、吉田鋼太郎といった俳優の名前もさることながら、今シーズンのドラマだと『9ボーダー』の記憶喪失人物も“こうたろう”(松下洸平)で、『くるり』で現在、記憶喪失のヒロインと良い感じに近づいている元カレ役も“こうたろう”(瀬戸康史)だ。

さすがに“こうたろう”が人気の理由までは、どう頭をひねっても結論が出てこないが、「こうだろうか?」と割と弱気に悩むタイプが多い世相を反映しているのではないか、というのが苦し紛れの私の解釈だ。上記の例だと、吉田鋼太郎が良く演じるキャラを除いて(『おっさんずラブ』などでは、割と弱気な一面もあるが)、大体当てはまっている感じもある。

ドラマでは、そうした普段は優しくて何でも受け止めてくれて、ちょっと優柔不断な感じの登場人物がたまに毅然とした動きを出すと、いわゆる「ギャップ萌え」でキュンと来てしまったりするわけだが、それは実社会にも当てはまるのかもしれない。岸田政権の支持率などを見ているとそのように感じる。

あれだけ優柔不断の典型のように思われた岸田総理の在任期間だが、先月、気が付けば戦後の総理の中で単独8位の長さになった。1位:安倍晋三、2位:佐藤栄作、3位:吉田茂、4位:小泉純一郎、5位:中曽根康弘、6位:池田勇人、7位:岸信介、8位:岸田文雄、9位:橋本龍太郎、10位:田中角栄と並べてみると、在任期間で考えれば既に大宰相である。

岸田総理から見ると、旧安倍派に端を発する裏金問題は「もらい事故」みたいなところがあるが、それにしても、危機を前に優柔不断なはずが、自らの派閥解散で自民党の派閥解消に道筋をつけたり、自ら政倫審に出席して予算成立の活路を開いたり、毅然としたアクションをとって好感度を上げた。もっと急落してもよかった政権・政党支持率は、一時期、少し踏みとどまった感が出ていた。

ただ、さすがにここに来て青息吐息な感じが如実に出ている。思ったより下がっていないとはいえ、朝日新聞や毎日新聞の調査だと、政党別支持率で立憲民主党の支持率が自民党を上回ったり、政権交代を望む層が、自公政権を望む層より多くなっていたりと、今まででは考えられない結果も出てきている。少なくとも自民党内で、「次も岸田政権で」と思っている人は旧岸田派も含めて、ほぼ皆無であろう。

こうなると、さすがに、総理本人が解散総選挙を断行して辛勝し、一か八か9月の自民党総裁選に臨んで再任を勝ち取ることを考えても、それはどだい無理な話となる。政治資金規正法の改正が山場を迎える中、せめてもの可能性として、岸田総理の大決断による「ギャップ萌え」をもう一度味わってみたい気もするが、どうも大胆な決断は出て来そうもない。さすがにここまでであろうか。

(転)

岸田政権の苦境を尻目に、ここに来て勢いを増しているのが立憲民主党である。党首の泉氏とは、大学時代からの知り合いでもあり、12月にも彼の個人的な後援会で講演をしてきたところだが、少し前までは、「打ち手なし」とも言うべき状況だったところから勢いをつけており、次期衆院選に向けての候補者もどんどん増やしている。ちょっと前だと考えられなかった政権交代すら視野に入ってきている状況で、個人的には政権担当能力については疑問であるが、いつひっくり返っても不思議はないところまで来ている。一時の勢いから、ちょっと停滞感が出てきている維新とも好対照だ。

先般の補選3戦で3勝し(長崎や東京では維新の候補も破り)、先週末は、静岡県知事選でも立憲民主党の推薦候補が自民党推薦候補を破った。同じ時の都議補選でも立憲の候補が自民の候補に勝利した。

参議院議員選挙の東京選挙区で獲得票数を減らし続けてきて(約170万票⇒約112万票⇒約67万票)、当選者6人中の4位(5位との票差は小さく)で、次が危ぶまれていた蓮舫氏は、ここがチャンスとばかりに都知事選に名乗りを上げた。小池氏の出馬表明の機先を制する形で(武道用語の「後の先」)、その直前に会見を行い、小池氏のこれまでの公約(7つのゼロなど)は全く守られていないと、激しい攻撃を加えている。※小池氏は、出馬表明を少し遅らせることに。

蓮舫氏と言えば、私が公務員をしていたころ、いわゆる事業仕分けの際に「2位ではだめなんでしょうか?なぜ1位でなければならないのか」と政府批判を繰り広げたことで有名であり、その言葉を、そっくりそのまま今回の都知事選で投げかけたい気もするが、冗談はさておき、その頃も今も、とにかく「敵」との違いを明確化し、論難・攻撃するスタイルが有名だ。

事業仕分けのことも、票を減らし続けている参議院議員選挙のことも、とにかく、過去は過去と割り切って、未来に向かうと言えば聞こえはいいが、あまりにも敵味方を峻別して違いを強調し、相手を論難する蓮舫氏のスタイルは、立憲民主党全体の悪しきイメージとなって世の中に拡散し、枝野氏から泉氏体制になって「忘れた」はずの「野党型スタイル」を思い出させることにもなり、泉氏にとっては、頭の痛い問題かもしれない。

(結)

冒頭に述べた過去の忘却、過去からの脱却もそうだが、一見「敵」に見える対象を切り捨てて攻撃を加えたり、無かったことにしたりするのは、ある意味で格好が良い。PRしていく上では、こうした二項対立に基づく攻撃や無視(決別)は、非常に訴求力があることは間違いない。

しかし、今の自分や未来の自分を形作っているのも、意識するとせざるとに関わらず実は過去の自分であるし、日本の政治を、或いは日本の社会を形作っているのも実は、自らと考えを同じくする人たちばかりではなく、様々な意見の総体としての人の集団である。

「こうだろうか?」との曖昧な日本的民主主義にも良いところがあるのではないか、などと国際社会・世界各地での分断を見ながら感じる今日この頃であるが、ずっと曖昧ではいられない中での「ギャップ萌え」を促す“たまの決断”も大事で、バランスが重要だ。TVドラマと政治ドラマ、両方見ながら何となくそんなことを考えている。

最後に、最近お話を伺ったり議論したりする機会の多い、尊敬する知人の経済学者の安田洋祐先生(大阪大教授)の素敵な言説を紹介してこのエッセイを締めくくりたい。

その内容は、概ね以下のものであった。少し長いが、ここに紹介させて頂く。(私の記憶ベースなので、責任は全て私にあります。)

「現在にマルクス主義を復権させつつある斎藤幸平先生と、近代経済学の学徒である自分(安田先生のこと)とは、一見、水と油のように違うスタンスの持ち主同士だと思われがちだが、実はそうでもないんですよ。

色々なシンポジウムでご一緒して議論していて感じるのは、もちろん、全く同じ意見ではないわけですが、資本主義の限界に挑むというメタ的な意味では、実は同じだったりするということなんですね。

現在の資本主義の否定のような形で、地域のコミュニティなどに活路を見出す齋藤先生のアプローチと、マーケットの現在を超えるべくマーケットデザインを設計しようと試みる自分のアプローチは同じではないが、戦友みたいな気持ちを感じることもある。」

峻別より包摂。忘却より連続。対峙より矜持。うん、攻撃や論難より甘美な響きがある。実話だが、今日、偶然、青山社中リーダー塾生のこうたろう君が面談に訪れていた。こうだろうか?の“こうたろう諸氏”の大決断に乾杯!

2019年5月末から青山社中で働く広報担当のnote。青山社中は「世界に誇れ、世界で戦える日本(日本活性化)」を目指す会社として、リーダー育成、政策支援、地域活性化、グローバル展開など様々な活動を行っています。このnoteでは新人の広報担当者目線で様々な発信をしていきます。