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幸せってなんだ?時代のムードに流されて「幸せへの道筋」を見失わないために

 人が、肉体的、精神的、そして社会的に満たされて暮らす「ウェルビーイング」(well-being)が重視されるようになっています。

 しかし、どうもウェルビーイングを目指すということになると、「働きすぎるのをやめて、バランスよい働き方にする」とか、「ブラックな職場を抜け出す」といった、心身の負担を軽くする方向の取り組みと思われがちです。最近、個人的に懸念しているのは、ウェルビーイングを支持する世論が、あまりに短絡的に、負担軽減という方向に流れ過ぎてはいないか、ということです。

プレッシャー・ゼロがいいことなのか

 本当に、負担軽減=ウェルビーイングなのでしょうか。誰にでもすぐわかるのは、たとえば肉体的なウェルビーイングを考える場合、ランニングやスイミングなどで健康を維持するということです。適度な運動で心地よい汗をかくことがウェルビーイング的ですが、その実、ランニングやスイミングは身体に負担をかける行為でどこまでが「適度」か判断が難しいところがあります。

 人によっては、限界に挑戦するような負担のかけ方がウェルビーイングとなります。少なくとも筋肉にある程度の負担をかけることで身体のさまざまな機能が刺激され、より強い負荷に耐えられる健康な身体になることは確かです。つまり、ある程度の負担をかけるということが体の健康にはよいことは自明です。

 心も同じです。プレッシャーから完全に解放された状態が健康かといえば違います。目標を持ち、気持ちにハリを持たせて頑張ることもウェルビーイングに繋がります。勉強して脳を活性化させ、新しい知識を得る喜びを得ることもウェルビーイングです。要するに真のウェルビーイングの達成には、単なるリラックスだけでなく、適度な緊張状態やある程度の負担をかけるという両方の作用が必要ということです。バランスが鍵です。

 繰り返しになりますが、どの程度の負担をかけることが心地よさになるかは、人それぞれ違うわけで、傍から見ると「え、そんなに負担かけて大丈夫?」という状態が、ある人にとってみれば快感だったりもします。その点はよく留意して考える必要があります。

「休日は部屋でゴロゴロ」ばかりでは…

 もう一つ大事なのは、「心の健康」と「体の健康」の相互関係です。たとえば週末の過ごし方を想像してみましょう。身体の健康を重視するのなら、「ウィークデーは営業で駆けずり回っているのでゆっくりしたい」ということで、週末はひたすら寝るとか、部屋でゴロゴロして過ごすという人もいるでしょう。それで身体の疲労はある程度とれることは確かです。

 ただ、それが総合的なウェルビーイングかといえばどうでしょうか。「せっかくの週末を無為に過ごした。体は休まったけど、毎週末こんなダラダラ過ごしていていいのだろうか」と不安に襲われてしまっては、心の健康の方が害されてしまいます。つまり、身体は楽になっても、心は満たされない、という状況があり得ます。

 では逆はどうでしょうか。心の健康を考えて、趣味に勤しんだり、友人と会ったり、コンサートや劇場に出かけたり、あるいは適度な運動をしたりと活動的に動き回れば、心の健康は満たされるでしょう。しかし、動き回り過ぎれば、当然ながら逆に身体は疲れます。精神的には満たされても、身体が悲鳴を上げる、ということにもなりかねません。

 つまり身体と心、どちらか一方の健康を重視するのではなく、こちらもバランスが大事ということです。

 このウェルビーイングの在り方をもう少し高い視点から俯瞰すると、中国の思想になぞらえて、道教的あり方か、儒教的あり方か、ととらえることもできます。道教的なあり方というのは、簡単に言えば立身出世を求めず無為自然で、今風に言えばスローライフを追求するような考え方です。まさに一般的に想像されているようなウェルビーイングのようですが、実は歴史的にみれば、老荘思想的な在り方を幸せな生き方とする時代ばかりではありませんでした。

 むしろ儒教的な思考で、刻苦勉励し、立身出世し、人のため世のために役に立つ立派な人になろうという生き方こそがウェルビーイングだとする時代もあったのです。

 ここで私は何が言いたいのかと言えば、ウェルビーイング、つまり幸せな生き方ひとつとっても、個々の志向性や時代の流れに影響されるものだということです。疫病の大流行や激しい紛争に見舞われた時代には、「世のため人のために頑張ろう」という儒教的な考えを持つ人が増えますが、今の日本のように、戦争もなく差し迫った大きな危機が想像しにくい時代には(個人的には、結構な危機が差し迫っているというか、既に到来している感じもしますが、一般論として)、漠然とした不安の中、もう少しゆったりした、道教的なウェルビーイングを重視しようという考え方の人が多くなる気がします。ただこれも、いつ逆回転するかは分かりません。

ウェルビーイングを叶える地方移住

 このウェルビーイングの視点で、地方移住について考えてみましょう。

 コロナ禍にワーケーションが流行りました。ワークとバケーションを組み合わせた造語ですが、人が密集して暮らす都会から地方に移住し、働きながらバケーションも満喫する生き方が多くの人を惹きつけました。

 この動きは、身体の健康のための選択だったとも言えます。私はこれを“密”やパンデミックから逃れるための「フリーダム・ワーケーション」と呼んでいます。地方の空気のきれいなところ、風光明媚なところで働き、余暇も充実させる。大きくいえば身体の健康を取り戻すためのワーケーションです。

 これとは微妙に異なるワーケーションが、心や脳の健康を取り戻すためのワーケーションです。これを「リバティ・ワーケーション」と私は呼んでいます。

地域と無縁ではいられない

 フリーダムとリバティ、日本語では同じ「自由」ですが、フリーダムは密や混雑から逃れる自由、リバティは、政治に関わる自由など、「何かに関与する自由」です。

 後者の心や脳の健康を取り戻すワーケーションは、地方に移住して都会の混雑から逃れるというだけでなく、例えば移住先の地域の課題――例えば地域おこしだったり獣害対策だったり過疎化対策だったり――に周りの住民と一緒に取り組み、周囲からの信頼を得、また、地元の人と趣味を一緒に楽しんだりする自由です。

 地方に移住しても、ただのんびりして、地域から孤立しているようでは、やがて心の健康のバランスが崩れてしまいます。これからは身体の健康だけを取り戻すための移住ではなく、心の健康を意識したような移住のスタイルが重視されるようになると思うのです。

 そのためには、地域の人との人付き合いが欠かせません。人との付き合いが生じれば、それはある意味で面倒が発生することにもなります。もちろん個人差はありますが、一般論としては、つまり適度な精神的負担を覚悟しないと本当のウェルビーイングにならないと思います。(そのあたりの真実をうまく描いている映画が、少し前の『イントゥ・ザ・ワイルド』だと思います)

少子化も「偏った合理主義」の帰結

 このように、リラックスと緊張(精神的なハリ)、身体と心、道教的志向と儒教的志向、いずれもバランスが大事です。それが歴史の知恵とも言えます。ところが日本の状況を見てみると、同調圧力が高いからなのか、いつも極端に流される傾向があります。戦前から高度成長期にかけては儒教的な、刻苦勉励し、とにかく立身出世を遂げて、という空気が支配的でした。そして現在は、心にも身体にもプレッシャーをかけないよう、あくせくせずに、自分のペースで生きていこう、という考え方が主流になっているように感じます。

 考え方も「偏った合理主義」が浸透しているように思います。少子化は、その偏った合理主義の現れでもあります。子どもを産み育てるのには、時間も、お金も、体力も使わなくてはならない。子どもを持つことがそんなに「負担」ならば、子どもは作らない方がいい。そのように考えている若い人は少なくないはずです。

 かつて子供を作るということは、将来、自分の老後を助けてくれる存在を作るという意味合いもありました。一種の社会保障的な面があったということです。しかし近代国家が発達して、国や自治体による社会保障が充実してくると、子どもに多くを頼る必要もなくなりました。むしろ子供を育てる負担とメリットを勘案すれば、「負担の方が大きいから子供を持つのはやめよう」と考える人が増えるようになってしまったのです。

 2024年度から政府の少子化対策はより充実してきます。政府が新たに支出する金額的には、まさに異次元の少子化対策がスタートします。しかし金銭面での負担が多少軽くなれば若い世代が子どもを作るようになるかというと、おそらくさきほどの偏った合理主義の風潮が消えない限り、そう簡単には子どもは増えないと思います。煎じ詰めれば、究極の少子化対策は「本当のウェルビーイングって何だろう?」という生き方の見直しなのだと思います。

 心身にプレッシャーをかけつつ「目標に向かって頑張ろう」という儒教的なウェルビーイングの在り方を、仮に「昭和的ウェルビーイング」と呼ぶならば、心身の負担を軽くして人と触れ合わず、子どもも持たないという在り方は「令和的ウェルビーイング」とすることができるでしょう。

ドラマ「不適切にもほどがある!」と映画『PERFECT DAYS』

 最近話題になったテレビドラマ「不適切にもほどがある!」の阿部サダヲさん演じる主人公の中学教師は、昭和的ウェルビーイングの代表でした。パワハラ的言動を見せつつも周囲の人の生活にもグイグイ関わっていき、生き生きと過ごしている。このドラマがヒットしたのも、令和の現代が忘れていたものを求める視聴者のバランス感覚があったからではないかと思うのです。

 一方、主演の役所広司さんがカンヌ国際映画祭男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』の主人公は、人と関わりを断ったような暮らしぶりで、見る人の共感を誘いました。一人暮らしのアパートで、毎日同じ時間に起き、清掃の仕事をし、馴染みの店で一杯飲み、風呂に入ったら、部屋の布団の中で好きな本を読んで寝る。他者との関わりは必要最小限。その繰り返しの人生です(もちろん映画ではその中にもドラマが生じるわけですが)。

 対照的な2人の主人公の在り方が、どちらも人を惹きつけた。私たちの中には、どちらも求める性向があるのです。しかし、だからといって、どちらか一方に偏り過ぎるのは結局は私たちを幸せにしません。自分の暮らしについて合理性や効率を極端に追い求めると、結婚は無駄、子どもは不要、という考えがあたかも唯一の「正解」のように思えてしまうものです(もちろんその結論を全否定するつもりはありませんが)。大変でも、困難でもその苦労を乗り越え、他者のために汗をかくことが自分の成長や幸せにつながる。子育てはその典型と言えるでしょう。

 私たちそれぞれ、そして社会全体的にも、「自分たちにとっての本当のウェルビーイングって何か」を改めて問い直すべき時期にきているのではないでしょうか。

2019年5月末から青山社中で働く広報担当のnote。青山社中は「世界に誇れ、世界で戦える日本(日本活性化)」を目指す会社として、リーダー育成、政策支援、地域活性化、グローバル展開など様々な活動を行っています。このnoteでは新人の広報担当者目線で様々な発信をしていきます。