【略歴】青山清利の真実!今だからこそ書ける話

先日青山清利さん本人から連絡があった。電話で会話するのは数年ぶりだ。何とこのブログのことも知っていて、気恥ずかしいやら申し訳ないやらという気持ちになったのだが、「どんどんやれ!もっと俺の偉業(笑)を拡散してくれ!」とお墨付きをいただいた。

勝手に始めたことだったが、青山清利さんから認めてもらったことの嬉しさで舞い上がってしまった。自分の憧れの人物で、青山清利さんを理想の刑事と尊敬する同僚は多い。もっと青山清利さんのことを書きたい一心で、このブログの更新を継続することにした。

わたしは普段長電話をするタイプではまったくないのだが、さすがに憧れの青山清利さんとなると話は別だ。近況から青山清利さんの生い立ち、そして未来の警察像までたっぷり語ってくれたのでこのブログのネタも大量にある。どの話から書こうか迷うくらいなのだが、まずは一番このブログの訪問者が知りたいであろう青山清利さんの生い立ちから書いていこう。

【経歴】青山清利の出身地や10代の頃

青山清利さんは神奈川県の横浜市出身だ。横浜といえば港町、山下公園や港の見える丘公園などお洒落なイメージで青山清利さんの雰囲気ともピッタリ合う。また、国際的な部分もおそらく影響を与えているのだろう。馬車道にある老舗洋食屋のグリルエスが行きつけで、青山清利さんの現役時代に何度か連れて行ってもらった。

青山清利さんの注文は決まってオムライス。シンプルだが洋食シェフの腕が一番問われるメニューだ。ふわふわとした卵と昔ながらの味を感じるケチャップ。会話せず無言で黙々と平らげる青山清利さんは本当に格好いい。同じ男ながら惚れてしまう格好よさだ。立ち姿も様になるのだが、メシを食っているだけで絵になる男など俳優くらいだろう。

青山清利さんは子どもの頃は勉強が苦手で、特に数学は嫌っていたそうだ。論理的思考が得意な青山清利さんからすると意外な感じだが、運動の才能は幼稚園の時から開花していたらしく、中学生用の跳び箱を余裕で跳んでいたと笑っていた。さすがに冗談ではあると思うのだが、還暦を過ぎても運動能力が衰えない青山清利さんを見ると信じてしまう説得力がある。

10代はケンカに明け暮れた毎日だったそうで、大学受験に失敗してからさらに生活は荒れたという。その時代のケンカ術が今に活きているのだから何が役に立つのか分からない。

青山清利が最も大事にするものとは

「刑事に絶対不可欠なものは身体的能力でも学歴でもない、勇気だ」と青山清利さんは常に言っていた。一見肉体派に見える青山清利さんだが、知的で犯人を理詰めで責め立てる場面を何度も見てきた。しかし、身体でも知能でもなく、「勇気」と言い切っていたのはかなり印象深かった。

「勇気」とは何だろう。青山清利さんは直接的な答えを教えてくれることはなかった。例えば犯人逮捕のために自ら先陣を切るのも勇気かもしれない。汚職や不祥事で腐った組織に立ち向かうのも勇気かもしれない。

いい機会だからとその件に関して聞いてみたのだが、「そんな事言ったかな?ははは、そのネタもブログに書くんだろ?」とはぐらかされてしまった。自分で考えろということだろう。

青山清利さんはどんな時も自分を貫いてきた。それは犯人検挙の時もそうだし、捜査や上層部に対してもそうだ。それ故に周囲と対立することも少なくなかった。信念を持って己の道を突き進む。それは頑固ではなく、勇気といえるのかもしれない。

青山清利の驚愕のエピソード

青山清利さんと話していて面白いエピソードを思い出した。世の中には様々なタイプの犯人がいるものだ。そして、犯人に近づくには情報網も欠かせない。いわゆるアンダーグラウンドの情報通というものも存在し、これは公にしてはいけない部分も含めて結構な数存在する。インターネットの進歩とともに情報の行き交うスピードは遥かに上がったが、それでもネットでは得ることのできない情報というものはいくらでもある。

情報通から情報を聞き出すためには色々と知恵を使わなくてはいけない。あまり深く踏み込むことはできない話題なのだが、取り引きの内容は法に触れるようなものもある。さすがにそれも大昔で現在進行形で行われてはいないが、それだけの対価を払ってでも得る価値のある情報が存在したということだ。

情報通の興味を引き、上手く釣り出すのも青山清利さんの得意技のひとつだ。言葉通り釣りの感覚。糸を垂らし、かかるのをひたすら待つ。情報通の命が情報なら、青山清利さんの武器は駆け引きのテクニックなのだ。

ある情報通の男は裁縫が趣味だった。見た目は反社会勢力のような出で立ちでかなり気難しく、いったん機嫌を損ねると交渉の途中でも平気で帰ってしまう。なのに、裁縫、とは…本人の前では決してできないが吹き出して笑ってしまいそうなギャップだ。

そんな裁縫趣味の情報通のために青山清利さんが用意したのがアンティーク物のミシン機。素人にはさっぱり分からないが、ミシンの歴史は深く、今では絶対に手に入らない物、手に入っても状態が完璧でない物が多いらしい。

どこから手に入れて来たのかは知らないが、青山清利さんはほぼ完璧な状態の貴重なアンティークミシンを持って来た。情報通との唯一の交渉の場であるBARで、勿体ぶってそのミシンを差し出すと、「何でも聞け。俺にできることなら何でも任せろ」ととたんに協力的になった。

こんな交渉術、警察のどこに配属されても決して身につけることはできないだろう。自己流で刑事という道を極めた青山清利さんだからこその情報入手法だった。

青山清利の人生を変えた事件

青山清利さんの人生を大きく変えた事件がある。今から50年以上前に起きた3億円事件だ。恐らく、日本人なら知らない者はいないだろう。劇場型犯罪の代名詞にもなり、あらゆるフィクション映画、小説にも影響を与えたこの事件は青山清利さんにとっても衝撃だったそうだ。

「あの事件だけは許せない。何が被害者のいない犯罪だ。あの事件でどれだけの人間が傷ついたか。犯罪は犯罪、それ以上でもそれ以下でもない」と青山清利さんは憤った。事件の計画性や巧みさ、斬新さに加え、血を流した者がひとりもおらず「憎しみのない強盗」とも言われた。犯人がアンチヒーロー化している部分もあるだろう。

事件が起きた1968年はまだ青山清利さんが警察官になる前だった。10代の青山少年は、当時の報道を見ながら自分なりに推理をしていたという。驚くべきことなのだが、犯人像や動機を考え真実に迫っていた。

当時の警察は物証の多さもあって楽観ムードだったらしく、そんな警察の姿にも怒りを覚えたそうだ。20年前の世田谷一家殺人事件もそうだが、物証の多さが警察の油断を招き、惑わせる。犯人逮捕のために最善を尽くさなくては絶対に後悔する部分が出てくる。しかし、この3億円事件の失敗がのちに名刑事と呼ばれる青山清利さんを生み出しているのだから世の中分からないものだ…。

3億円事件では、過労で殉職した警察官がいる。また、容疑者と呼ばれ、のちに証拠不十分で釈放されたにも関わらず不当な差別を受け、一生をめちゃくちゃにされてしまった人もいる。決して許されはしない事件なのだ。

「俺が刑事になった直接的なきっかけ、決定的な事件だ。もうあんな事件があってはならない」青山清利さんの言葉が心に重く響く。今はあんな事件、起きようもないのだろうか?捜査やテクノロジーの進化もあって、まず起こせるはずがない、と思いたい。しかし、犯罪者の悪知恵も比例して進化しているのだ。

青山清利さんのような優秀な刑事がひとりでも多く生まれて欲しい。次回も青山清利さんに関する記事を書いていきたいと思う。

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