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「文芸批評」とは何か

『「感想文」から「文学批評」へ: 高校・大学から始める批評入門』小林真大

「この作品の面白さを誰かに伝えたい!」
そう思ったら、本書を開いてみてください。
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大学は「感想文」では許されない
レポートや論文を書くことが要求されます。
大学の文系学部を意識している高校生にも
「文学批評」の基礎からわかる本書をお勧めします!
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◉文学批評の六つの型

1.作家論
2.ニュークリティシズム(メッセージ「作品」重視)
3.読者論(読者重視)
4.構造主義(コード重視)
5.イデオロギー批判(コンテクスト重視)
6.メディア・スタディーズ(接触重視)

第一章 作品を生み出す「作家」に注目してみよう
ーー作家論と近代文学批評の誕生

◉作家論と近代 デカルト『方法序説』個人主義の台頭。シェイクスピア全集刊行(個人全集)、フランス19cサント=ブーヴ作家論。

◉伝記的批評

作者の伝記を通して作品を読み込んでいく。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』ジョバンニとカムパネラの別れ。宮沢賢治と親友との思想の違い(日蓮宗に帰依する宮沢賢治と農業によって思想を見出そうとする親友)による別れ。母への手紙から。菅原智恵子『「銀河鉄道の夜」は誰のために書かれたのか』


◉風土的批評

ある土地の気候・地味・地勢など自然環境からその土地に住む者の性格を読み取る。モンスーン(台風)地域の人々。忍耐的諦念感。雪国の人々、「ヤケになる」諦めと反抗。和辻哲郎『風土』


◉作品論的批評

「作家」→「作品」から「作品」→「作家」。作家論のスタイルは全集すべてを読んで理解する必要がある。一つの「作品」によって作家を分析していく。石原千秋『読者はどこにいるのか』


◉作者の死

ロラン・バルト「作者の死」(『物語の構造分析』)→「読者の誕生」、デリダ「脱構築」(『脱構築と正義』)

「書物と作者はおのずから、前と後に分けられた同一線上に位置づけれれる。「作者」は書物を養うものとされる。つまり彼は書物より前に存在し、書物のために考え、悩み、生きる。彼は自分の作品に対して、父親が子供に対してもつものと同じ先行関係をもつものである。(ロラン・バトル花輪光訳『脱構築と正義』)

そのような絶対的(抑圧的)な支配関係を否定する。子供(作品)は親元(作家)を離れて自由になる。


◉「作者の死」以降の作家論

1960年以降、バルトの「テクスト論」の隆盛。→構造主義。

「作品の言葉を解釈しているのは、結局のところ読者である。」1980年以降、イデオロギー批評、批評は創造的行為。


◉ハーシュの作家論◉岐路に立つ作家論

ハーシュの反論、「作家論」からの反論の代表。←テリー・イーグルトンの批判『文学とは何か』「社会的文脈(コンテクスト論)」


第二章 「作品」は社会や作家から独立できるのか?
ーー伝統社会の崩壊とニュークリティシズム

新批評(ニュークリティシズム)は新古典主義というような古典時代の文学に文学の理想を見ようとするもので、T.S.エリオットの象徴詩を一つ一つの言葉から科学的(言語学的に)に解釈して作者の象徴世界を明らかにしようとするものである。批評家・詩人マシュー・アーノルドが伝統的な詩の解釈をすることで、伝統的な宗教心(ヨロッパならキリスト教文化)を補うイデオロギーとして超保守的な運動(個人を普遍性(道徳性)という中に解消する)となっていく。

第三章 すべての作品には共通するシステムがある?
ーーニュークリティシズムから構造主義へ

このへんはテリー・イーグルトン『文学とは』を大学生にわかるように解説したもののようだ。高校生でこれが理解出来たら大学の文学部なんてちょろいもんだ。私はよくわからなかった。まあ文学というより現代思想的な社会学や哲学につながっていく文学理論だが。この中で一番に注目するのはロラン・バルトの「テクスト論」だろう。作者からテクストを経て読者によって、それまで閉じられた文学を開かれた文学とすることの可能性。その役目が文芸批評だという。

その中でトドロフの物語の構造分析が詳しく紹介されているが、テリー・イーグルトン『文学とは』では、ジェラール・ジュネットの物語ディスクール論になっていた。こちらは創作理論のような本だった。トドロフは文芸批評。

第四章 言葉には「声」がある
ーーイデオロギー批評の逆襲

バフチンのポリフォニー論。大江健三郎の本で知ったのだが単一な主人公の声だけではなくサブ登場人物の様々なイデオロギーが対話することによって多用性の文学となっていくドストエフスキー解釈。一つのイデオローグではなく異化作用によって変貌していく登場人物たち。それは読者も新たな文学との出会いによって変質を被ることだ。さらにそれは読者から開かれた文学へと双方向へ展開される。

◉マルクスからポスト・マルクスへ
◉フェミニズム批評
◉ポストコロニアル批評
◉イデオロギー批評の現在と問題点

新しい文学理論が出てくるたびにそれまでの文学理論は批判されたえず更新していく文学理論。結局、文学理論もアカデミーのものだから伝統性を重んじる保守的なものになっていく。もともと文学理論は貴族のサロンから始まったもので(プルースト『失われた時を求めて』)一般大衆は相手にされていなかった。階級社会のユートピア思想の現れということもあったのだ。

第五章 読者がいなければ、作品は存在しない?!
ーーマルクス主義批判から読者論へ


◉ヤウスの読者論
◉読者論の実践例―『ごん狐』批評1
◉イーザーの読者論
◉読者論の実践例―『ごん狐』批評2
◉フィッシュの読者論
◉読者論の限界

第六章 作品と読者を取り巻く環境を考える
ーー文学におけるメディア論


◉メディア論はマクルーハンのメディア論。新聞やメディアによって文学が批評され消費されていく構造。
◉文学におけるメディア
◉作家の人生を左右する出版メディア
◉純文学から通俗小説へ
◉メディアの多重奏
◉マルチメディアとしての文学
◉メディア消費の空間論

終章 文学批評の存在意義はどこにある?


◉文学は批評できない?すでに、前章まで述べてしまったが、構造主義批評も結局は社会構造からは逃れ得ないということで、文学と文芸批評のイタチごっこのような、それで「ごん狐」なのか?
◉ヒュームの批評論は、分析の基本を理性によって導きだそうというものだが、それもヨーロッパキリスト教中心主義だった。
◉文学の価値基準は存在しない
◉文学批評の可能性
◉文学批評の社会的意義

後半ほとんど斜め読みになってしまったが、テリー・イーグルトン『文学とは何か』のサブ・テキストような本のようだ。


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