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コルトレーンのジャズ(サックス)は迷走(瞑想)する?

JOHN COLTRANE"A Love Supreme: Live In Seattle"( Verve/1965)

ジョン・コルトレーン(ts, ss, per) マッコイ・タイナー(p) ジミー・ギャリソン(b) エルヴィン・ジョーンズ(ds) ファラオ・サンダース(ts, per) カルロス・ワード(as) ドナルド・ギャレット(b)
ジョン・コルトレーン、不朽の名作のライヴ盤『至上の愛 ~ライヴ・イン・シアトル』本日世界同時リリース https://www.barks.jp/news/?id=1000209793

スタジオ録音のコルトレーン・カルテットによる『至上の愛』は、カルテットの絶頂期の演奏でコルトレーンは、それに満足することはなかった。65年フランスでのライブでの『至上の愛』演奏時には、アーチー・シェップを加えフリー化の兆しは見えていた。今回のアルバムは、さらにその先を行くマッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズの脱退前の演奏です。

マイルスがエレトリック化していく時代にあって、コルトレーンはフリー化していくのですが、この二人演奏形態は違いますが根本的なところでは繋がっていたのだと思います。二人共、時代の流れに対して向き合いながらも、その時代の他者性の中でマイルスもコルトレーンの演奏も自己を突き通した。コルトレーンが混乱したカオスの中でも、求道者のごとく「神の道」を求める姿はフリー時代でも変わっていない。ただサイドメンが著しく変わっていく。

今回のこのアルバムは、はっきり言ってそれほどいい演奏だとは思えません。『ライブ・イン・シアトル』がすでに『至上の愛』の演奏を除いて、インパルス盤で出ています。そっちのほうが以後のコルトレーンの方向性が見えます。この『至上の愛』はフリー化へ至るまでの過渡期のアルバムとして、ジョン・コルトレーンの変わらないサックスとエルビンの怒りのドラムを捉えていていますが、またベースもツーベースで音を厚くいしていますが、結局は弓弾きも後にはギャリソンが担当することになり、ギャリソンのベースソロが前座演奏のように長くなる。その後にファラオのフリーキーなトーンがカオスを生み出し、コルトレーンは淡々と自身のサックスを吹き通す。

コルトレーンが求めた一音がそのカオスの中でとても美しく響くことがあります。例えば『ライブ・イン・ジャパン』での「クレセント」での長いギャリソンのベースの後の出だしの一音の尊いサックスは、電化マイルスの最初にマイルスの存在感たらしめるトランペットの一音に匹敵すると思います。

コルトレーンは世界が混乱したカオスだってことを伝えたかったのかもしれない。その中で自身は瞑想しながら自身は、神への祈りをやり遂げる。それが神への愛なのか。その中で変わらない自分自身の音を見出している。周りはノイズ(他者)でしかない。


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