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シン・短歌レッス141


『王朝百首』

塚本邦雄『王朝百首』は藤原定家の『百人一首』を否定しながら、そのスタイルは本歌取りのように受け継いでいるのだ。そこに塚本邦雄の前衛短歌は彼岸性にあり、後鳥羽院をその頂点とする『新古今集』の和歌の革新性と保守性なのかもしれない。その部分で釈迢空の短歌観にも似ているのかもしれない。

あひ見てもちぢに砕くるたましひのおぼつかなさを思ひおこせよ  藤原元

この時代の歌人は藤原一族が仕切っているのかと思うほど藤原姓が多い。おかげで今では誰が誰なのかよくわからなくなっていた。

一応、優秀さの目安は三十六歌仙ということになるのだが、それでも三十六人もいるのかという気持ちになってしまう。六歌仙も覚えてないのに。

恋歌の大家だという。

逢ひ見ぬに死ぬべきものと知りぬれば心をさへぞ殺し果てつる 藤原元

藤原家の強引さが感じられる。

忘るなよ忘ると聞かばみ熊野の浦の浜木綿うらみかさねむ  道命法師

その一方で坊主和歌は気楽さがいい。

後白河法皇の『梁塵秘抄』での和歌の優れた人に挙げられている。

さ夜ふけて蘆のすゑ越す浦風にあはれ打ちそふ波の音かな  肥後

同一人物かと思ったら違うようだ。むしろ檜垣嫗に興味が湧く。

あひ見てもかひなかりけりむばたまのはかなき夢におとるうつつは  藤原興風

藤原興風は『古今集』歌人。

夢よりもさらに現実のほうが儚いと詠む、塚本邦雄好みの歌人か?

影見てもうきわが涙おちそひてかごとがましき瀧のおとかな  紫式部

紫式部の歌にしては大げさすぎるかもと思ったが、この大げさな感じが物語作家としての資質だったのか?塚本邦雄は紫式部の歌を凡人の枠を出るものではないと手厳しいのだが、その評価は今は覆されていると思う。

時雨かと驚かれつつふつもみぢ紅き空をも曇るとぞ見し  源順

藤原姓も多いが源姓も多い。源は『源氏物語』の光源氏がそうであるように天皇家からの降下で承る姓なのかな。源順(みなもとのしたごう)も嵯峨天皇の系譜だという。三十六歌仙の一人だが二十で亡くなっている。梨壺の五人というなにやら重要人物。天才肌の人だったようだ。紅葉の時雨という誇大表現。

誰ぞこの昔を恋ふるわが宿に時雨降らする空のたびびと  藤原道長

藤原の有名人道長は紫式部との関係深い人。『光る君へ』では和歌は得意そうではなかったが、ここに載るぐらいの実力はあったのか?「空のたびびと」がいいという。

消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしのもりの下露  藤原定家

藤原定家の百人一首はけなすが歌人としての定家は褒め称えている。秋の儚い感傷的な気持ちを「こがらし」に託して詠んだのか。その「下露」というきらめき。

露は霜水は冰にとぢられて宿借りわぶる冬の夜の月  二條院讃岐

女性歌人も名前で混乱する。讃岐とか伊勢とか土地の名前なのか?顔長だな。ここから冬の歌になるのか?そのまえの「こがらし」がすでに冬だった。

空さむみこぼれて落つる白玉のゆらぐほどなき霜がれの庭  殷富門院大輔

まず漢字が読めない。殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。役職名だから大輔ということだな。殷富門院が女帝ということだった。空とか入ると名歌率が高いような。

NHK短歌

俵万智さんが選者、大河ドラマ「光る君へ」とのコラボで人気の第2週。ドラマでまひろの従者・乙丸を演じる矢部太郎さんがゲスト。テーマは「旅」。司会はヒコロヒーさん。

乙丸はまひろの見守る従者。俵万智べた褒めだな。ヒコロヒーの小説の解説も書いているそうなので、そういう性格なんだろうな。ヨイショの俵万智だった。テーマの「旅」も西行とか芭蕉をイメージする旅ではなくて、旅行という感じのリッチさで合わない。死後の旅も旅行といって帰ってきて欲しいとか死者も浮かばれないじゃないか。
せっかく矢部さんがいい話をしているのに俵万智が解説が俗っぽくって余計な感じがする。

引き算という省略は先週の川野里子の復習か。歌枕という想像(空想)短歌の話は面白かった。もう少し詳しくやってもらいたかった。

<題・テーマ>川野里子さん「白」、俵万智さん「文字」(テーマ)~7月22日(月) 午後1時 締め切り~
<題・テーマ>大森静佳さん「鳥」(テーマ)、枡野浩一さん「だいすき/だいきらい」(テーマ)
~8月5日(月) 午後1時 締め切り~

テーマ短歌の「文体」

『短歌と日本人VII 短歌の創造力と象徴性』岡井隆編からテーマ「文体」。

「小説の文体」というと小説家の個性だが「俳句の文体」というと俳句のルール(コード)のようなものをイメージする。「短歌の文体」はその両方を含んでいるのかな。なかなか示唆に富むテーマだった。

短歌の作中主体というのが、最初全然わからなかった。というかそんなもん必要なのかと。短歌でも虚構性を詠む場合もあり、そのときも主体となる文学でなければいけないのかと。その主体となる文学に反旗を翻している文学はあるのに(シュールレアリスムとか)。短歌だとそのシステムの中にある天皇制を考えてしまうからか。天皇が神として中心でありあとは従者のような感じか?下々の者みたいな主体性かな。割りと卑下して詠うような感じ。だから日本だけの内輪意識が強く、世界へ広がっていかない。まあ世界にもヨーロッパにはキリスト教と言った確固な伝統がある。それでキリスト教文化を詠むと革新っぽく感じるのか?

日本語の音楽性を考えると七五調とか有効だと朔太郎や中也が言ったとか。

石川啄木の歌論は短歌を一行や五行詩ではなく三行詩にして啄木特有のリズムを追求したこと。それだけでもリズムは変わる。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

短歌というのは人が現れて何かを詠う。俳句は人がいなくてもいい。あと最近は物語性を歌集に求めるようになっている。短歌の敵はそうした物語性だという。俳句に近づくのか?詩だとシュールレアリスムの考え方。ロマンチシズムを否定する。短歌は結句が一番大事だが、俳句は上五で苦労する。

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