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シン・俳句レッスン95

今日は「春曇」で行こう。春の季節の変わり目で曇の日が多い。花が咲いている時期は「花曇」で花の咲き始める前は春曇というのだという。

他にも鳥曇とか鰊曇とかあるんだ。他に思いつきそうな曇は鬱曇とか。

今朝の一句。

春はそこ、イベント押し寄せ春曇

孤独の俳句

金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』。今日は尾崎放哉。

うそをついたやうな昼の月がある  尾崎放哉

このへんの表現が尾崎放哉は上手いんだよな。虚構の現実みたいな。『紙の月』という宮沢りえ主演の映画があったが、まさにそんな感じ『ペーパー・ムーン』だ。山頭火の昼の月と比べると面白いかも。

山のするどさそこに昼月をおく  山頭火

昼の月ぽっかり空いた空気穴  宿仮

『空気頭』という藤枝静男の小説をイメージした。

こんなよい月を一人で見て寝る  尾崎放哉

月を見て寝るなんてキャンプとかしかありえないような。窓から月が見える部屋とかあるか。たぶん放哉は外で寝ているんだろうな。酔っ払って。その大らかさに憧れる。

何かつかまへた顔で児が藪から出て来た  尾崎放哉

こんな俳句があるのが驚き!そして驚きの子供が想像出来る、さらにそれに驚く放哉の顔も。驚きのグラデーションか?やぶから坊みたいな。

藪から棒のグラデーションホラー映画  宿仮

突然観客に伝播する理想的なホラー映画といえば、元祖「エクソシスト」か?

この音楽がいいんだよな。

針に糸を通しあへず青空を見る  尾崎放哉

裁縫をやっているんだろが縁側なのか。「あへず」は否定形なのか。糸を通せないでいるんで青空を見てしまうんだな。「あーあ」という漏れる声が聞こえてきそうである。こういうところが放哉らしい。今では裁縫なんて趣味か職業的にする人しかいないと思う。そう言えば先週か「針供養」で小島慶子が、中学の頃つかっていた裁縫箱の針を未だに使っている(使ってない?)ということを言っていた。針供養なんてする人が今どれぐらいいるのだろうか?

昔、夜母が糸を通せない時に代わりに糸を通してやっていたが、ハサミで切ろうとすると駄目だという。糸切り歯で切ると糸の先が解れて針に通しやすくなるのだ。もっとも今はそういう道具もあるんだよな。母はそういう道具があることを知らなかったのだ。この句がいいと思うのは、そんな母のため息も聞こえてくるようだったから。

母は針に糸を通せず子に託す  宿仮

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る  尾崎放哉

こういう自由律の上手さだよな。五本の指が俳句を折っているのかもしれず(それはないか)、手に職を付けたいと願っていたのかもしれない。針に糸を通せなかったかも。

生ぬるい五本のゆびを見て一句詠む  宿仮

漬物桶に塩ふれと母は産んだか  尾崎放哉

「桶に塩ふる」の意味がよくわからん。桶の中にということか、こんなことをやるために母は産んだのかと自身を問うているんだ。寺の小僧みたいなことをやらされているのか?「須磨寺で」と詞書があった。

母は勝手に生まれたと思っているだろうな。

棺桶に釘を打たせるために俺を産んだか  宿仮

逆の立場で詠んでみた。

底が抜けた杓で水を飲もうとした  尾崎放哉

そんな杓を捨てる人はいないのか?水を汲んですぐ口に付けて飲めばいいんではないか?水面歩行が出来るのならそういう神業も出来るようになるかもしれん。それが修行だったりして。

修行いう名の不条理を生きる  宿仮

血豆をつぶさう松の葉がある  尾崎放哉

この松の葉は必然と放哉のためにあるようで面白い。でも血豆を松の葉でつぶそうとするのもおかしい。つぶせるか?

血豆が出来た頃の手を見てみたい  宿仮

逆上がりを必死に練習していたあの頃とか。

どろぼう猫の眼と睨みあつてる自分であつた  尾崎放哉

こういう瞬間を瞬時に句に詠めるというは凄いな。でも句を詠んでいる(浮かべている)隙に猫は逃げているだろうけど。俯瞰して自分自身を見ている放哉だという。

釘箱の釘がみんな曲がつて居る  尾崎放哉

釘を抜いたのをまた使っているのか。寺だからエコなんだ。不条理さも修行のうち。

銅像に悪口ついて行つてしまつた  尾崎放哉

悪口で切れて、そう言っている人について行ったということらしい。それも変だな。付いていくふりをして外に出たかっったのではないか。和尚に理由を聞かれたらそう答えたとか。放哉の分身が銅像の悪口を言ったということになっている。よくわからん。常高寺の銅像を調べれば誰に悪口を言ったかわかるかも。


現代俳句の海図

小川軽舟『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』から「片山由美子」。このへんの俳人はNHK俳句で馴染みがあるな。ただ片山由美子は苦手かも。

思ふこと雪の早さとなりゆけり  片山由美子

『風待月』

雪が積もっていく様子だろうな。気分が重たくなるような。モーツァルトのト短調シンフォニーが響いてくるとか。それはない。

「なりにけり」かと思ったら「なりゆけり」だったのか?成り行きに任せたということか?疾走感があるのかな。「けり」は言い切るから疾走感は無いと思う。「ゆけり」にはあるか。過ぎてしまったということか。ならもう溶けている?その変化なら疾走感はあるかもしれないが、そこまで読み込むのは相当な人だよな。

この句から音楽性を感じるのは山本健吉のアンチテーゼとしてだと解説している。つまり山本健吉は俳句は短歌的時間を一七音にしてその叙情性を切ってしまったと読むのだ。そう読んだのかもしれない。俳句脳か?

音楽性は抒情性でもあるということなんだな。それでも結社育ちなんだ。カルチャーセンターとあるから、そんな感じがする。

一本の指の狼藉蝌蚪の水  片山由美子

『雨の歌』

これは音楽性を感じるというかそのものだな。

立春の酢の香ただよふ厨かな  片山由美子

『水精』

台所俳句だけど葛原妙子っぽい感じがする。「俳句研究賞」受賞者だった。

数ふるははぐくむに似て手毬唄  片山由美子

『天弓』

手毬唄の句。何をはぐくむのか?「はぐくむ」と言ったら子か?よくわからん。俳句ということなのか?17文字を数えるとか。

すぐれた俳句は、説明できない感動をあたえることがあるが、それは季語による連想の拡がりとともに。俳句の言語構造が超論理をも可能にするからである  片山由美子

『現代俳句との対話』「描くということ」

「手毬唄」は季語ないではないか?「手毬唄」が季語?新年だった。春を待つで冬の季語でもあるらしい。そうか「もういくつ寝ると」の意味なのか?詰まらない句になったな。

坂道は人をとどめず夕桜  片山由美子

『風待月』

否定形だけど存在を強める句だという。

言葉に全服の信頼を置いている人なのか?言葉ですべて言えるみたいな。だからわからない言葉でも意味を調べるということらしい。言語の厳密さが苦手なのかもしれない。違う読みを認めないという。言葉も方便というのをしらないのだろうか?やっぱ苦手な俳人だと句が出来ないな。

天の川銀河発電所(現代俳句ガイドブック)

佐藤文香『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック』から。高山れおな。聞いたことがあるような名前の俳人だった。そうか、レオナというミュージシャンがいるんだ。ロックの人じゃなく、ジャズで。

この人は凄い。タップミュージシャンの人ではなくて、俳人の高山れおなです。

出歩いてハートを撃ち抜かん業平忌   高山れおな

サブカル俳句という感じだという。知識の集約を五七五で読んでしまうポップさなのか?

手のばせば腋かがやきぬ鳥の恋  高山れおな

『ウルトラ』

彫刻を詠んだ歌のようだ。

無能無害の僕らはみんな年鑑に  高山れおな

「俳句年鑑」のことを言っているとしたら凄い。全俳人敵みたいな。

死に急ぐなり。白い雲(ヘ・アオ・テア) たなびく白い雲(へ・あお・テア・ロア)  高山れおな

『俳諧曽我』

カタカナはニュージランド国家でマリオ語だという。曽我兄弟の死んでいく歌らしい。

秋暖簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか  高山れおな

幕末遊女の辞世の句と9.11の「香炉峰の雪」を掛けているとか。わけわからん。

衆(おは)く有(ゆた)かに我らゝゝゝゝ虎落笛(もがりぶえ)  高山れおな

オタクすぎるな。これ内輪の世界じゃないとわからんよな。

今日もあまり出来なかった。放哉みたいな誰でもわかる句がいいと思う。高山れおな凄いと思うが一周回って自己満足の世界になっている。

春はそこ、イベント押し寄せ春曇
昼の月ぽっかり空いた空気頭
母は針に糸を通せず子に託す
生ぬるい五本のゆびを見て一句詠む
棺桶に釘を打たせるために俺を産んだか
血豆が出来た頃の手を見てみたい
修行いう名の不条理を生きる

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