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ロリータの幻想を崩す映画だったが......

『ロリータ』(1962/アメリカ)監督 ‏ : ‎ スタンリー・キューブリック 出演 ‏ : ‎ ジェームズ・メイソン, スー・リオン, ピーター・セラーズ


ハンプシャー州ラムズデイルを訪れたハンバート・ハンバートは、陽気な少女(スー・リオン)に心の底から魅了された---「愛らしい名前のお嬢さんが、愛らしい誌的な明るい名前…」それはロリータ。ロリータの側にいたいが為、彼はある計画を実行する。それはロリータの母シャーロットと結婚することだ。屈折し、惑わされたハンバート(ジェームズ・メイスン)は、シェリー・ウィンタース扮するシャーロット・ヘイズとついに結婚する。が、ロリータをめぐってクレア・クィルティ(ピーター・セラーズ)と敵対する。スタンリー・キューブリック監督のテーマである偏執的な愛(37年没後の「アイズ ワイド シャット」で再び取り上げられた)は、ウラジミール・ナボコフの暗くて感動的な原作を元に作り上げられた。役者達の最高の演技を引き出して作り上げられた本作の反響は、当時も今も変わらない。

原作とは違うような。いきなりクレア・クィルティ(ピーター・セラーズ)が殺されてしまう。原作はハンバート(ジェームズ・メイスン)が勾留中の裁判で手記を書くシーンから始まるので、その殺人の理由がクレア・クィルティだったと映画ではわかるのだが、原作では理由は不明で『ロリータ』ということから未成年者略取・誘拐罪だと思っていたのだが、殺人罪だったのだ。

また映画の方のロリータは少女期を過ぎた思春期ぐらいの年齢に感じて、そこもイメージと違った。最初はロリータ映画というよりロリータ・ママがパリからやってきた作家を誘惑するという展開で、ほとんどロリータは登場してこないというかたまにロリータ・ママとの諍いで出てくる母と娘の葛藤みたいな展開だった。ロリータ・ママの生活が50年代アメリカの物質文明そのもので、ロリータのその影響下にあった。

だからハンバート・ハンバートが見出すのはアメリカの欲望主義に染まっていく少女をヨーロッパの知性で教育しようとするのだが、失敗する。それで思い出すのだが谷崎潤一郎『痴人の愛』の映画のようだと思ったのだが、前半の展開はチェーホフ『かもめ』のような老いていく女優と若い娘の対立のような構図で老いていく母は死んでいく。それはハンバート・ハンバートの手記を観て結婚した理由を理解したからだ。だからロリータ・ママが交通事故で死んだ時に、彼は罪の意識を感じてしまう。しかし、そこからロリータ(寄宿舎に追いやられていた)と生活出来ること知って、自ら欲望の罠に落ちていくのだった。

ハンバート・ハンバートのアメリカ物質資本主義への批判が含まれていた。ハンバートの思い描くニンフェット(天使)のロリータは観念上のものでしかなく現実のロリータはアメリカ物質資本主義の申し子だったのだ。そこに母親と同じく汚れていたのだが、その汚した男がクレア・クィルティという脚本家だったというわけだ。これは原作を汚してしまう映画というメタフィクション的な批評も含んでいるのかもしれない。何故なら原作の『ロリータ』を映画化しようとすると7時間もの長さになるというので書き直しをさせられた。それがハリウッド方式であり、また「ロリータ」の女優も実際に14歳の子供を使うことが出来なかった。すべて映画に対する幻想があったのだと思う。

もともと原作の方も人間の子のロリータをニンフェットのロリータ(そこにポーの『アナベル』の詩のイメージがある)から来るもので幻想=幻視という作家の崩壊を描いていたわけである。キューブリックの映画は、それほど悪くはないと思うが『ロリータ』映画だと思うとがっかりするかもしれない。晩年そうした幻想のエロスを『アイズ ワイド シャット』を撮ったのもこの『ロリータ』があるからというのは納得する。


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