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シン・短歌レッス76

和泉式部の和歌

黒髪の乱れも知らずうち臥せばまずかきやりし人ぞ恋しき                      和泉式部


今日から高木和子『和泉式部』(コレクション日本人選)に入る。小野小町に比べると大人の女の歌だな。「黒髪」というと与謝野晶子の『みだれ髪』を思い出す。

くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる  与謝野晶子

与謝野晶子『みだれ髪』

和泉式部の和歌の本歌取りかどうかはわからないが、影響されたことはあるだろうな。他に定家も本歌取りをしていた。

かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞだつ  藤原定家

『新古今・恋五』

ただ本家には敵わないな。「かきやりし人」が誰かいろいろ想像をたくましくするようだ。「恋三」でも小町とは随分違う。快楽の世界だ。


平成歌合(上野正比古『古今和歌集百番』)

春は全然出来なかった。歌人のイメージが掴めないからか。『古今集』もいまいちよくわからんし。今日は秋対決十番勝負。

(歌合六十六番)
白雲にはねうちかはしとぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月
白銀の勾玉あゆぐ様なして月の首辺(くしへ)を雁渡りゆく

左は月の明るさを詠んでいるのだが、そんなに明るいのは今の時代ではないだろう。左古今集で右は正比古。あたり。正比古の「月の首辺」というのは月の首飾りのような雁の渡りの歌だという。上手いな。

(歌合六十七番)
枯れ進むしかはあれど待つ虫の鳴く声すなり秋の野の末(うれ)
秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはむ

松虫対決。左は写生か?右は我と同一にしている。こういうのは僧侶の歌でありそうだ。左正比古、右古今集。当たりだけど右は詠み人知らずで恋人を待っている歌だった。松虫は鈴虫のことだと。

(歌合六十八番)
秋萩にうらべれをればあしびきの山したとよみ鹿の鳴くらむ
妻恋ふる鹿の涙か荻の花あしたの山路にさはに零るる

右はいまだと大げさな歌いようだ。たぶん、古今集。左はもっと客観視している。違った。右が正比古だった。鹿と荻の組み合わせは、『万葉集』から詠まれている。自分は花札の世界だったが。違った、萩はイノシシだった。鹿は紅葉。

(歌合六十九番)
手児がふる袖となげめし尾花さへ秋たけゆけば白髪と見ゆ
秋の野の草のたもとか花すすき穂にいでて招く袖と見ゆらむ

左は山上憶良のような歌だな。右は写生だ。左古今集 右正比古。違った左が正比古だった。左と右はほぼ同じような意味だが、左はすすきを年老いた白髪と見たのがより深いのか?右は在原棟梁。業平の子供だった。

(歌合七十番)
ももくさの花の紐とく秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ
まぐはしきものに棘(いら)はひそむらん心しいろへ秋の野の花

「秋の草」対決か。左は単純だから古今集か右は棘があるのを描いている。左はエロも感じられる。当たり。「ももくさ」は「百草」の意味でいろんな草ということだと。左は詠み人知らずだけど相当なプレーボーイか?右の「いろへ」も色=欲望、「弄(いろ)へ」の意味があるという。

休憩。NHK短歌。お題。川野里子さん「手」。山崎聡子さん「『子育て』をめぐって」(7月17日(月)まで)
「手」は尾花で詠めるな。「子育て」なんて難しすぎる。逆にアイロニーで作ってみるか?

(歌合七十一番)
草も木も色かはれどもわたつうみの波の花にぞ秋なかりける
海原の白き波の穂あさゆふに散れど尽きせぬ常しへの花

秋の草花を海の波に見立てた歌か「常しへの花」がわからん。薄みたいなものか?右の方は古今集か?左の方が響きがいいように感じるが。間違った。左は文屋康秀だった。確か六歌仙。「常しへの花」は永遠の花の意味だった。

(歌合七十二番)
霜降りて菊のふたたび匂ふがに老いの行方もかくあらまほし
いろかはる秋の菊をばひととせに再び匂ふ花とこそ見れ

左の「霜降りの菊」の歌は後鳥羽上皇の歌の本歌取りか?それだったら正比古なのだが、こっちが後鳥羽上皇の歌の本歌だったとも考えれる。右の方は菊の匂いだけ歌っていて技工的には左の方が凝っているかな。左は正比古のような気がする。白菊は凡河内躬恒の『百人一首』でも出てきていた。

(歌合七十三番)
竜田川もみぢみだれて流るめりわたならば錦なかやたえなむ
竜田川八重にもみぢの流るれば裁ちもあたはぬ錦なりけり

竜田川対決だった。業平ではないから難しい。右の方が意味を取りやすい。左は業平の本歌取りのような気がする。左正比古。右古今集。違った。左は詠み人知らず。

(歌合七十四番)
あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
紅葉葉に埋もれしやどを木枯らしの道ふきわけて夜半に訪ひくる

紅葉対決。似たような歌でわからん。右は紅葉に「葉」と無駄な重ね方しているから正比古ではないと見て左が正比古、右は古今集。外れ。右は正比古だった。「紅葉葉(もみじは)」は紅葉(こうよう)の葉ではなく、もみじという植物の木の葉が色づくことでその葉っぱだという。このへんの知識はよくわからん。無駄に言葉を重ねるのを咎めるのに、美意識的なものなのか?

(歌合七十五番)
ふみわけてさらにやとはむもみぢ葉の降り隠して道とみながら
ちりつもる落葉にゆくへ隠されて鹿に道とふ秋の山かな

現実的に見れば左の方は正比古が詠みそうな実景なのだが、右は花札だた。右古今集で、左が正比古。また外れ。この回はまったくわからない。右は千利休の「庭掃除」の逸話とか。そんなのわかるわけないわ。やっと終わった。あまりにも当たらたないからやる気が失せる。

うたの日

「自由詠」。せっかくの自由詠だから『百人一首』を離れて読んでみるか?

夏の風四隅に香る快楽夢(けらくむ)に老いて目覚めて移ろいの箱

1♪だった。まあ、これが実力だ。詩に繋げようとおもったのだが。

映画短歌

映画短歌は『ルナ・パパ』。

『百人一首』

7番をやってなかったみたいだから月だし神話的短歌としてはいいかも。

砂の原石つぶて飛ぶ花嫁は月の引力海渡るかも

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