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シン・現代詩レッスン19

テキストは『長谷川龍生詩集』。寺山修司『戦後詩』は一時的に返却したので、今日はその中で気に入った詩『恐山』を書いた長谷川龍生の本を借りてきたので、その中から彼の代表作(デビュー作と言ってもいいのか)『パウロウの鶴』。

パウロウの鶴 長谷川龍生

剛よい羽毛をうち
飛翔力をはらい
いっせいに空間の霧を
たちきり、はねかえし
櫂のつばさをそらえて
数千羽という渉禽の振動が
耳の奥にひびいてくる。

『長谷川龍生詩集』

「パウロウ」は地名か。検索したが出てこなかった。架空の地名ということにしておく。「鶴」は何度も書くように象徴だ。これは象徴詩なのだ。「パウロウの鶴」からイメージされるもの。まずその鶴の説明から。強い羽の飛翔力という。空間の霧をたちきりというのは、晴れやかにする様だろうか?そういう詩の世界。彼らは数千羽という群れで羽ばたく。戦後の若鳥という感じか、その羽ばたきが耳の奥にひびいてくる。情景的に素晴らしいのかな。それは理知的な描写なのだろう。

まず象徴を何にするか?翔べない鳥だよな。グロテスクな鳥でハシビロコウを考えたがいきなりハシビロコウは存在感が強すぎて負けそうだ。それにハシビロコウは飛ぶだろう?飛翔というほどでもないか。候補に入れておこう。駝鳥で駄目そうだったらハシビロコウに入れ替えよう。

野毛の駝鳥

灼熱の砂漠よりは快適な暮らし
至れり尽くせりの生活は
全速力で走ることもなし
縄張り争いも敵襲もない
野毛の駝鳥は檻の中で
一羽だけのVIP待遇さ

情景はこんなもんか。実際に観察したわけでもなかった。ただ野毛動物園に駝鳥がいた記憶があったのだ。

それと高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」の詩もあった。

ぼろぼろな駝鳥  高村光太郎

何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢゃないか。
頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも喰ふだらろうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐいるぢゃないか。
身も世もない様に燃えてゐいるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへえてゐいるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐいるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

「ぢゃないか」のリフレインを使いたい。

野毛の駝鳥

灼熱の砂漠よりは快適な暮らしぢゃないか
至れり尽くせりの生活は
全速力で走ることもないぢゃないか
縄張り争いも敵襲もないぢゃないか
野毛の駝鳥は檻の中で
一羽だけのVIP待遇ぢゃないか

絶望の沼沢地から
いつのまにか翔び立ちはなれ
夜明けにむかってか
パウロウの不思議な鶴が
百羽ぐらいづつ、一団をなして
エネルギッシュな移動を始めている。

『長谷川龍生詩集』

絶望から夜明けに向かっている希望か
若さだな。エネルギッシュな詩だ。

新居の住処から
逃げ出すこともないぢゃないか
いつでも朝になれば
餌を待ち構えているぢゃないか
孤独死ということさえ
美しい記録とされるのぢゃないか
きつと剥製にされるのぢゃないか
芸術的な職人の手による
芸術的な駝鳥の姿ぢゃないか

見たことはないか
それは、いつでも反射弓の面で
タッチされ、誘導されている。
夜の大脳。Occiptal 脳葉の上だ
ニヒリズムを賭けてか
夜明けにむかって
数千羽のパウロウの鶴が
百羽ぐらいづつ、一団をなして
挑みかかるように渡っていく。
百羽ぜんぶが嘴を上方にむけ
前の尾翼にウェイトをのせ
つらなり、もくもくとして
止むことがない。

『長谷川龍生詩集』

剥製の付け合せの詩

前もって用意されている定型文ぢゃないか
駝鳥の脳内では定型を逃れて
翔び立つ夜明けもあるのぢゃないか
月に嘴を刺すように
鳴く夜だってあるのぢゃないか


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