シン・俳句レッスン90
二月が始まってしまった。もう二月だと勢いつけたように時間がすぎていくような気がする。気づいたら十二月だったとか。せめて二月の俳句を沢山作るようにしよう。あと月の俳句の続きも。
そうだ。二月のテーマを決めよう。テーマというか目標だな。NHK俳句に入選するとか、それは難しい気がする。そういうのではなくて、自分の判断材料が欲しいのだった。そうだ!連句を作って投稿しよう。角川短歌とか。入選とかは別にして、そういう目標があるとやる気が出るかもしれない。とりあえず月百句を完成させて、それで一月から十二月までの連作俳句にする?そうしよう。
二月はスノームーンだったよな。雪の月。
似たような句を作った気がした。
ネット句会で無得点だったやつだ。ほんとは銀世界にしたかたのだが、「銀世界」は季語じゃなかったから雪世界で妥協したのだった。
こういう句を入れて街のイメージが膨らませる作品がいいかも。新月は月がないのでまったく人も金も集まらないのだが初日だから無我夢中で歌っていたという句。
尾崎放哉
金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』。今日は又吉直樹選定の放哉。
八五五だから、定形にもできそうなのにそれをしない。
「つくづく」が味わい深いのか?
初句が大きくて後ろが尻窄み。あと我が目立つ。意外に自己主張が強い人だったのではないのか。ただ井戸の底に自分の顔を見出すというのだから客観的であったわけなのだ。それでも駄目人間になったのは酒なのか?放哉の苦悩ってなんだろう?不安とも書いてあるが人間であることなのか?
二月は如月か?
俳句らしくした。
これはほとんど定形だな。中八だけど、その字余りが浮き上がった亀なんだと思えば立派な俳句だが、無季なのか?ただ亀が冬眠から目覚めたとするなら春なんだろうと思う。亀は暗さの象徴でもないような気がする。問いか。「兎と亀」の亀の人生。又吉は芭蕉の「古池や」を連想するという。イメージだよな。動の山頭火に対して静の放哉ということだった。
この句はピンポンダッシュみたいで好きだ。寺にいられない放哉だった。実際は鐘の音で有名な寺に鐘の音を聞きに行って夕方まで待っていた放哉が、寺の奥さんなのかが鐘をつくのを見てがっかりしたという話だった。イメージする鐘の崇高さと実際の俗っぽさなのか。普通それがいいと肯定するのが俳句なのだが、放哉は否定的なように感じる。去るが先にあるからなのだろか?これだと作中主体が鐘をついたことになるが、詞書では他者が鐘をつくんだよな。その動作に失望したのか?そっか、上五で切れると中五で下七で句跨りなのか?この句は技術的に凄いのではないのか?定形だと「去る鐘の酔い」「んの中に」となるんだよな。酔っ払いだったのか?この句は面白い。句跨りの技法を使っていきたい。「ん」の余韻。
後の方がいいかな。匂いに酔う感じ。
こっちだと匂いに「ん!」ていう感じか?これがいいか?
柘榴からイメージされるエロティシズムかな。それを愛ではなく恋だと言って否定するのだった。又吉は「た」の繋がりが余韻を醸し出すという。柘榴に笑われているのか?西東三鬼の柘榴の句をイメージするのかな。
柘榴恐怖症なのか?柘榴のイメージが恐怖に感じる人もいるかもしれない。ドット恐怖症のような。
草間彌生デザインのドット模様の柘榴がどっと割れている恐怖感。複雑すぎるか?西東三鬼の本歌取りだと思えば面白い。ドットはひらがなのほうがいいか?
これもいいな。孤独というより解放感だと言う。それは「夕空」という字足らずですでに夜に向かおうとしていることなのかもしれない。又吉は、そういう解釈だ。これ夜になるのだったらその姿も消えていくことになるんだ。彼岸の世界のような。けっこう深いような気がする。
今こんな感じか?
夜(よ)は世でもあるし余でもある。
この字余りな感じは蛇の長さなのか。炎天に殺されたようで、カミュ的なのかもしれない。そうか、炎天をまたいだのだ。何者かに殺されて干からびている蛇だったのだろう。これも面白い句だ。放哉のユーモアの感じは好きかもしれない。
放哉の後だと俳句も好調だな。
これもシュールレアスムスの反語になっているような。ミシンと出会わなかったのだな。又吉のラーメン屋でビニール傘がわからなくなり、一本抜きとると俺傘だと言われ、結局傘をささずに逃げたという。尾崎放哉より面白いじゃないか?そんな又吉で一句。
もう一つだな。
こんなもんだな。
これもいいな。三本足の犬という歌を連想するけど一本足の雀の方が空飛ぶ自由はあるのかもしれない。
ハチ公の代わりに。
この明るさはなんなんだ。真似出来ない。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし ふたたび』から。
夏
「顳顬(こめかみ)」なんて漢字検索すれば出てくるけど、お前書けないだろうと言いたくなってしまう。でも作者は1936年生まれか?もしかして筆で書いたのかな。そんなことを考えるだけでこめかみが痛くなる。「顳顬」の由来が、米を嚙むと動くところからというのがそんな簡単に決めたんだと面白い由来だ。米嚙でいいじゃないか?
これも耳の傷の痛みで春を感じるという句。季語がないな。「深みどり」がそうなのか?
よくわからない。お茶の淹れ方なのだろうか?珈琲を連想する。急須から最後の一滴までという意味らしい。
眠気覚ましに飲むんじゃないのかな。五月ごろの陽気のせいで眠くなるのか?
路地苺だというのだが、苺だったら苺の匂いのほうが強うそうだが。
「太陽の私語」がよくわからんが、ジリジリする感じなのかな。太陽は天皇とかの意味かもしれないな。『万葉集』の若菜摘みの歌を連想する。ミツバチのささやきとか。
いまいちだ。「真っ赤」は苺と重なるな。自分が好きじゃない俳句だと本歌取りも難しい。
こっちの方がまだいいか?
「ヒヤリハット」みたいで事故を連想してしまう。桐の花も赤ではなく薄紫で関連性がよくわからん。桐の花がピザの美味を引き立てているとか。そうかな。「ピザハット」ぐらいで。
どういうこと?電車の窓から桐の花が見えたということかな。「桐の花」が薫風の頃に咲くから、そんな五月の風という感じが「まつしぐら」ということらしい。難しいな。「桐の花」を知らないと読めないな。「桐の花」は見たことがあるのかな?「桐の木」がまず分からない。桐たんすぐらいだ。分かるのは。坪内稔典さんの句の方が印象深い。
「明易し」が季語。青春18きっぷの旅を思い出す。始発駅だから「夜明け」が眩しいのかな。神戸だっけな、駅の屋根が透明だったのは。そこから朝日が差し込んでいたような気がした。
字余り過ぎるな。
このぐらいか。
暁(あ)けぬが明けよりもジリジリ来る日差しのようだ。井戸水なんだろうな。これはけっこう好きかもしれない。
NHK俳句
どうも夏井いつきは駄目だな。「入学試験」なのに「入学子」とか「入学」はいいのか?その時点の選の明確さがない。確か子季語と言われているのは駄目だと言っていたはずだけど、受験とか受験子でないからいいのだろうか?そのへんのポイントが分からなすぎる。
あと入学試験にお守りというそんな句は凡人でなければ読まないだろう。そういうのが実際に大量に来るのかな。なんか選もぱっとした句がなかった。季重なりも主とか従とか。うるさい感じ。そんなのどっちでもいいと思うが。宿の雑魚寝の句があったが、雪で季重なりということだったが、印象としては他の句よりも良かった感じがする。受験生で雑魚寝とか珍しい光景だし、面白いと思ったのだが。
来週から堀田季何さんに選者が変わる。新興俳句っぽいから期待出来るかも。
現代俳句(福田若之)
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック』佐藤文香という本を借りてきた。
こういう本読むと現代俳句はぶっ飛んでいるのだが、まずそういう俳句は投稿では没になるな。福田若之は「週間俳句」を運営している人
あじさいを手で触れるという発想がいいのかな。そして、その触覚でばらばらなのを知る。ほとんどひらがななのが、あじさい感が出ているか?
これも面白い言い回しか。まず感情を満たすという比喩なんだが、そんな形をしているのかもしれない。ふくれっ面。
植物でひらがなで書いて漢字が一つ重要なポイントになっているのか?五五七なんだが、五七五で「どうしてもしあわせが要るヒヤシンス」では駄目なんだという。要るが決めポーズなのか?細見綾子に似たような句があるという。
花は言葉そのものでそこに助詞が付いて動きを表すということかな。
これなんか桜が散っていく情景を現している感じがする。今のコトバの俳句の最先端の人かもしれない。今どきの弱々しい青年の感性という感じか。
トリッキー俳句だ。
このへんになると理解不能だ。口語俳句は切れが出来たら成功だという。音数は関係ないのか。この句の場合「猫ですし」「じゃあ何でちまきくってんのって話だわ」になるのだが後ろが八分音符十六音符ということなんだが。「何でちまき」が八分音符、「食ってんのて話だわ」が一六音符ということか?よくわからん。真似も出来ない。
これはキザな句だな。でもけっこう好きかもしれない。セカイ系?透明感がある。
こんなもんか。難しい現代俳句だった。
今日の十句。
現代俳句から比べれば甘っちょろいな。まともな俳句すぎるかも。
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