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日本でこそ読まれるべき古典

『死刑囚最後の日』ユゴー, 小倉 孝誠 (翻訳) (光文社古典新訳文庫)

「死刑囚! いつもひとりでこの想念に耐え、それが消えないせいでいつも凍え、その重みにいつも打ちひしがれている!」刻々と迫るギロチン刑の時。独房での日々から断頭台に上がる直前まで、主人公は自らの胸の内を赤裸々に告白する。死刑制度廃止を訴え、若い情熱で書きあげたユゴー27歳の作品。主題の重み、技法の革新性、社会的影響の点で刮目すべき作品であり、ユゴーの代表作のひとつと見なされる画期的小説。

社会派映画や読書をしても世界は変わらない。だから意味がないというわけでもなく、例えばユゴー『死刑囚最後の日』が発表された時は、ギロチン全盛時代であって、それでもユゴーはこの本を書いたわけだ。圧倒的多数は死刑制度廃止を考えようともしなかったし、死刑を見世物として楽しんでいたりもした。

フランスで死刑制度が廃止されるのは、1981年だ。それまでの間人々が無関心のままでいたのかと言うとそうでもなく、脈々と関心を持つように働きかけた人がいたということ。今の日本では死刑廃止論者は、ごくまれなのかもしれない。それは、死刑囚の家族やら誤審ということを想像できないから。

『死刑囚最後の日』で娘との対面シーンがあるが、娘は長くあっていないので父の顔を知らない。すでに亡くなっていることにされているのだ。そして毎夜天に祈っているという。彼女のこれからの困難は、『レ・ミゼラブル』で描かれるのだろう。

例えば先日観たイラン映画『白い牛のバラッド』でも聾唖の娘がいた。この映画の場合、誤審で死刑執行してしまったのだ。その上で誤審をした判事が悩む映画となっている。イランでは上映禁止。それでも、日本では公開された。少しでも多くの人に観てもらい映画だ。

日本でも死刑廃止論を主張する人に森達也がいる。私も彼の本から実情を知ったのだ。

ただ森達也の論理はすでにユゴーの主張の中に含まれていた。1832年に書かれた『死刑囚最後の日』はフィクションで、「1938年の序文」では小説ではなく、前文としてユゴーの死刑廃止論が論じられている。そこで死刑存続の三つの理由――〈1〉凶悪犯を排除して社会を守る〈2〉相応の罰を加えて被害者の復讐ふくしゅうをはたす〈3〉犯罪抑止効果の反論をきっちりしている。当時の哲学者や政治学者は、死刑存続の立場だった。

ウィキペディア「死刑存廃問題」を読むとユゴーの時代から論点は変わっていない。それでもフランスでは、1981年に死刑制度が撤廃され、死刑執行国は僅かしか無い。日本もその中の一つだが。それは死刑問題が論じられたというより関心の薄さだろう。徐々にそういう論理も出てきているのだと思う。誤審があった場合や、抑止力の効果も最近の事件を観る限り疑問だ。生きるより死刑になりたいから犯罪を犯す劇場犯が後を絶たない。ネットの影響をもある。復讐というどうしようもない情念だけなんだと思う。

昨日、『閉鎖病棟』という死刑囚が精神病院に入れらた映画を観た。その映画でも復讐が描かれているのだ。死刑囚の悲惨な状況を描きながら、なおも死刑囚が復讐してしまう。そこに共同体としての情があるのだ。極悪人がいるのならそれも止む得ないという。それが正義として描かれているので納得できない

たぶん、多くの人はこの映画を観て感動するのだろう。死刑囚が笑福亭鶴瓶のほんわかさもある。また小松菜奈がレイプされたというのもある。ただそれを裁くのは死刑囚でいいのか?という疑問が起きないと嘘だ。なぜ死刑囚が罪を被ってまでも制裁しなければならないのだろう。小松菜奈が復讐を望むからか?

光文社古典新訳文庫は、あとがきの解説が充実している。フランスの死刑の歴史や近年のフーコやデリダの論説までも載せている。その元となるのはユゴーのこの本にあるようだ。今まさに日本でも読まれなければならない古典だろう。


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