ワンコインをドブに捨てよ
私がタバコを吸う時は
19本残ったタバコの箱を捨てる私を見て、友人は大抵「勿体無い」と言っていた。
両親は喫煙者であり、
当時中学生の弟は私をスケープゴートにして、私の部屋の窓で赤マルを吸っていた。
私以外全員喫煙者で、弟もそのことが分かってから特に咎められる事はなかった。
父親は肺に入れても咳しか出ないし、
元々ぜんそくの上肺炎で2ヶ月入院して出世コースから外れてしまったり、過呼吸で救急車で運ばれたらしているのにちっとも煙草をやめないので、私は親父を馬鹿だなあと思っていた。
別に私は遵法意識が特別高い訳ではないけれど、なんとなく20歳になるまでは絶対にタバコは吸わないと決めていた。
(酒に関しては、西日本の昔の田舎あるあるだが正月に誰でも日本酒を飲まされる所だった。今は色々とかなり厳しくなったので、もしかしたら廃れているかもしれない。少なくとも私は自分の子供には飲ませない。)
20歳ではじめて買ったのはマルボロの赤だった。
大体吸い方は知っていて、煙草を喫む。口の中でふかす分には美味しいのだけど、肺に入れるとやはりゲッホゲッホと咳をしてしまい、「やっぱりこんなものを吸ってる奴はダメだな」と、何故か安心していた。
そう。私はタバコが吸えない事に安心していたのだ。
「他の人と同じ様にタバコになんて逃げられやしないんだから、ちゃんと前を向きな」みたいな言葉が自分の中から湧き上がって来た。
きっとこれはとんでもなく傲慢な考えな訳だけれども一種のナルシズムに浸れたため、ストレスが溜まると私は度々煙草を1箱買い、1本あるいは2本に火をつけた後、残りをゴミ箱に捨てた。
コンビニでアルバイトをしていたので銘柄は無駄に詳しく、あたかも「これは良いものですよ」と言う顔をして売る仕事の時の私と対比するとタバコの悪さが増すようで、心地がよかったのだろう。
コンビニの店長がダブルワークでクラブのキャストをしていた為、バイト先の飲み会がそのクラブになることがたまにあった。
他のキャストの人はおらずセットで借りている様なものだったし、値段もその辺の学生向けの飲み放題よりもはるかに安かった。
赤いソファにガラスの机。
そこでは、ちょっと本音を喋ろうかなと言う雰囲気が出る。
「市原君は、煙草を吸わないの?」と聞かれた時は、「そうですね、いつもは吸わないんですけど、たまに無性に吸いたくなる時ってあるじゃないですか」と答えていた。
曖昧な、どうとでも捉えられる私の答えに対して「えらいね」とか、「タバコなんて吸わん方がええよ」とか、反応は人によって様々だった。
「ぬるめの自傷行為なんです」と言わなかったのは、相手を気遣っていたのもあるが、単純に当時はどうして安心するのかわからなかったと言うところが大きい。
悪い所がある奴は安心
社会人1年目、新卒で入社した会社はどこを切り取ってもブラックな職場であったが、喫煙者率も相応に高くて喫煙所が打ち合わせ場所の様なものだった。
「タバコを吸わないが情報は欲しい」と言う態度で喫煙所に向かうのは、今思うと掠奪行為にも近しいものだった様に思うが、悪びれもせずに向かっていた。
会話の内容は、当然の様にギャンブル・風俗と彼らの地元(自分は地元採用だったが、先輩の多くは本社近くの人間で、本社から離れて勤務していた)の話が多く、毎年1人採用しているにも関わらず結婚しているどころか彼女が居るのも8年上の先輩まで遡った。
働けば働くだけ自己肯定感が減っていったが、大学時代努力をしてこなかった事に対する報いだと言う自責から、多少は耐えることができた。
しかし、やはり根本的な価値観が合わなかったのだろう。上司からは「要領よくやれ」と言う言葉をよく投げかけられ、私は私で「その指示は改竄であり手抜きである」と言う言い方でものを言った。
私は決して楽をしたくない訳ではなく、厳しくも正しい道を選んで居るのだ、と考えていた。
しかしそれを続ければ続けるだけ消耗し、自分は、他人を蹴落とす事の出来ないただの臆病者ではないか?と言う悩みを持ち始めた。
演じても逃げられない
「悪い奴だが彼は優秀だよ」と他人が評価されると憎らしい気持ちになる。決して自分が無能だからではなく、私は選んで「正しいと思われる事」をやっている。そう言う自分の思いが、私自身を他人へ嫉妬させるのだ。
大学時代の終わりから、社会人歴の浅い時まではそう言う思いが燻っていた。
「悪い事」が出来る自分に安心する。それでも出来るだけ誰にも迷惑を掛けたくないから、数百円をドブに捨てる様にタバコを吸う。
寿命と、僅かなお金の交換で得られる安心。それが自分がタバコを吸う理由だった。
しかし、他人から見たときに、「タバコで狂っている人間を演じる事」と、
「タバコで狂っている人間」との区別はどうやってつけるのだろうか。
火をつけるたび、その境界はどんどん曖昧になった気がした。そしてそれは心地よかったと認めざるを得ないのだろう。
私は最後に名残惜しみながらココナッツ・フレーバーを吸って、いつもの様に19本ゴミ箱に投げた。
子供ができて
子供が出来て、3番目の職場に移ったのを最後に、私はタバコを吸うことがなくなった。
上場企業で一緒に働く人のタイプがガラリと変わったのも理由だが、「悪い人」を演じる必要が薄れて行ったことが大きいのだと思う。
長らく「真面目だけど遊べる人」と言うキャラを目指していたけれど、「ちゃんと社会貢献してますが何か?」と言う顔をしておいた方が得と言うか、自然になってきた。
子供に何か注意するときに「……とは言ったものの、自分は出来ているのか?」と問うことが増えた。その度に直そうとする。
子供の挑戦と予想される失敗を許容し、成長の糧とさせ見守る機会が随分と増えた。
いつか子供が私を超える様になる日も来るだろう。
好きなタバコは気だるい煙を緩い自死に向けるのにうってつけであった。
今は、一生懸命働いて、いろいろな事を全力でやってなお足りなかった。それが私だと。前よりは思う様になったな。
ダメだけど最悪ではない人生だから。私は自分で自分を傷つけずとも生きていける。