見出し画像

「自然と人生」に思う

芦花公園に蘆花恒春園を訪ね、記念館で作品が並べられている中で、気になったのが「自然と人生」である。さっそく区立図書館で借りた岩波文庫は、紙が全体に茶色になっており読みづらく、それでも冒頭の「灰燼」は、一気に読まされた。西南戦争のときに9歳で、水俣で体験したこと見聞きしたことがきっかけになっているのだと思う。価値観が変わるときに、正義であった西郷隆盛が官の敵になるという時代、家族を襲った悲劇は、こんな形もとりうるのだと、小説の力を感じた。確かに、この小説だけが、「自然と人生」というテーマから少し外れる気もしなくはないが、時代を生き方を考えさせたのちに、かずかずの自然の描写をゆっくり楽しむというしかけと思ってもよいのかもしれない。そのあと、1996年刊の比較的きれいな中古を手に入れてゆっくり読んだ。
「自然に対する5分時」では、29の短い自然をうたうエッセイが。「写生帖」では、11の人生をうたうエッセイが、そして「湘南雑筆」では、正月から晦日までの1年を湘南の地でうたう47のエッセイが連なっている。
最後は、「風景画家―コロオ」の評論である。蘆花がコロオにとことん惚れ込んだことがよくわかるのではあるが、懸命に語る言葉が、馴染みのない難解なものであるため、なかなか感動を共有できるものにならないのが、残念であった。
印象に残った、いくつかのエッセイをメモしておく。
「大海の出日」(p.60)は、犬吠埼での日の出を描写したもの。つい2か月ほど前に犬吠埼の灯台を訪ねたころもあり、想像が膨らむ。おそらくは、日の出る前に白光の環を画いていたのは完成したばかりの灯台だったであろう。
「檐溜(たんりゅう)」という言葉がある。軒先から雨の雫が作る水たまりのことのようである。こんなところにも、人間の住み方と自然とのかかわりが見つけられて、映り込んだ青空や桜が絵になるのだ。
風工学の研究に従事していたこともあり、風にはロマンがあるとつくづく思う。「風」には短い文章で、蘆花の思いが現れる。「雨は人を慰む、人の心を医す。人の気を和平ならしむ。真に人を哀しましむるものは、雨にあらずして風なり。」と言う。
「田家の煙」は、それだけで万葉集を思い起させるが、今のまちづくりにも思いは及ぶ。「良好なる小学校、良好なる会堂、良好なる診療所、この三は健全なる村を造る三要素。しかして健全ある村は、健全なる国を造るの大基本」とうたう。まさに、120年経っても、同じことが基本なのだ。
「桜」では、西南戦争のときに薩軍の兵士から桜の枝を渡されて、しばらくして小川に投げ入れたのだという思い出を語る。そして、20年経ったいまでも、桜を見るとそのときのことを思い出すという。このエッセイは、冒頭の小説「灰燼」とつながる話である。西行だけでなく、桜は人生との近い存在のようでもある。
「断崖」は、ちょっとしたミステリータッチもあり、また、人生そのものでもある。断崖絶壁が怖くなる話でもある。
逗子に住んでいた蘆花は、相模湾の向こうに見える富士を日々眺め暮らしていた。春夏秋冬と季節ごとに表情を変える富士を愛でながら過ごした様子がが偲ばれる。
明治維新から、戦後を経て、20世紀のがむしゃらな人間の営みが、とても上手に自然と付き合って来たと言えない今の社会を、これからのあり方を静かに思うに、120年前の先輩の声を聴く心地のする書である。若干30歳とは思えない自然の味わいかたが心地良かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?