「自転しながら公転する」(山本文緒、新潮社)読後感

プロローグのベトナム人とベトナムでの結婚式も、本篇に入ってなんだか関係が読めないまま、それでも読み進ませる。そしてエピローグ冒頭でその疑問がさらに深まり、びっくりというか、楽しく総括させる仕掛け。「小説新潮」に3年にわたって雑誌連載したものにかなり手を加えた上に、書き下ろしのプロローグとエピローグを加えて単行本にしたのだと。
30代前半の都(みゃあー、おみや、など)と20代前半の寿司屋の貫一とのまさに現代の恋愛小説。そこにダジャレも入れてる。場所は大仏のある牛久で、ショッピングモールや車の運転・故障、交通違反、今の日常をうまくからめている。
社会性は、ポーランドの労働者の連帯のこととか、金色夜叉のテーマとか、さらには東日本大震災や広島の土砂災害の後のボランティア活動のことなども登場する。ファッション業界の市場経済でのあり方も。
大量消費、市場経済の本質を突く話も、都の経験から「二年くらい前にその年の世界中の流行色が決められて、各国のスタイリングオフィスで素材をシルエットを決めて通達する」(p.72)と語られる。小さなお店でデザインして作った服を売るのでは、商売が成り立たない社会になって来てる。ある意味では、自由な選択、自由な生き方が、社会制度でできにくくなっていることがある。そのすぐ後で、中卒だけど本を読んでいる貫一が、地球の自転や公転のこと、その地球の我々の生きている表面の速度のことを語る。貫一からは自由に生きようとする、気持ちよく生きようとする姿が感じられた。
感動的なのは、「なぎさ」でもそうだったが、470ページある中の360ページあたりで、父親代わりの友達の父親を語る言葉。社会が人を助けない状況、しらないおっさんが、ほっとかないでおせっかいのある社会がなくなって来ている。
「なぎさ」の後のまだ2冊目だけど、一気に読ませるのがすごいと思った。もう少し、山本文緒を読んでみたい。明治の夏目漱石の社会の描き方と、平成の山本文緒の描き方に、似たものを感じた。

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