見出し画像

降伏の時(稲木誠+小暮聡子、2022年4月28日岩手日報社)を読む

思いがけず、釜石のイオンモールの書店で朝10時に、平積みの「降伏の時―元釜石捕虜収容所長から孫への遺言」を見つけた買った。
潮見第で、ハンモックに揺られながら、結局、夕方6時に読み終わってしまった。昨年、やはり潮見第でNHKラジオ深夜便に小暮さんが出て話していたのだと思う。そんなことがあるのだと思いながら8月13日のフェースブックにも書いていたことも確認できた。
第1部「1945年 降伏の時」は、元所長稲木誠(1916-1988)が、1945年8月15日から9月15日までを書いた未出版の手記を、孫の聡子が机の引き出しから見つけて、2021年1月から4月まで岩手日報に連載したもの。本書では90ページにわたる。
第2部「1975年 フックさんからの手紙は」、昭和50年に元捕虜のオランダ人ヨハン・フレデリック・ファン・デル・フックさんが、釜石市長あてに送った「俘虜だったが、所長には良くしてもらった」という手紙に始まる、フックさんと稲木誠の往復書簡で、37ページ。
第3部「2015年 遠い記憶の先に終止符を探して」は、聡子が、元捕虜のアメリカ人やオランダ人と出会い、言葉を探す物語20ページ。
第4部「2022年 過去から未来へ」聡子に届いたフックさんの息子からの年賀のメールから、物語を締め括る。
戦争は、人々を苦しめる。まして、戦った兵士が捕虜になったり、その捕虜を収容しつつ、食糧が足りなくて、健康に気をつかうのも大変なこと。400人の捕虜を精一杯、面倒見ていたのに、アメリカ軍の艦砲射撃で52人の捕虜の命を失う。そして、思いがけずBC級戦犯として巣鴨プリズンに5年。釈放になったのち、ジャーナリストとして苦しい思いを手記にして「茨の冠」と「巣鴨プリズン2000日」を刊行。そんなときに、元捕虜のフックさんが「立派な所長だった」と釜石市長に手紙をくれて、心が落ち着く。それを、ようやくバランスシートの収支が合う、と書く。
身体的につらい思いと、精神的につらい思いが交錯する人生を送りながら、未完の手記が、孫の手で本になって、国境を越えた心の交流が綴られているというのも奇跡かも知れない。
稲木がフックさんと手紙を交わすなかから、オランダと日本の関係が記される。徳富蘇峰が「近世日本国民史第33巻」に「日本は、ほとんどオランダによって、開国の準備もできたし、光明が与えられた」と書いているという。徳富蘆花や蘇峰を知ったのも、昨年のことで、なぜか印象に残っている。フックさんの住まいの近くのライデン大学には、日本の資料が沢山残されていることを、鯰絵から知ったこともあり、国境を越える人の付き合いを思う。
聡子は7歳のときに祖父の誠を失っているが、たくさん可愛がられたことを覚えている。誠の父母は、教育者で父の良輔は、一関高等女学校の教師。母ヒサは、お茶の水女子大卒で、やはり盛岡高女や花巻高女で教えていた。誠は、生まれは宇都宮だが、幼少期を花巻と一関で過ごしたのだという。なんと、一関中学の卒業生ということは、わが妻礼子の先輩でもあるということになる。
第1部、第2部は、誠の思いもあり、自分の気持ちを書いているが、客観的であろうとすることが読めて、人としてなにが大切かを知る。第3部、第4部は、聡子の祖父への気持ち、ジャーナリストとしての使命感、75年を経て子や孫となって、さらに新しい友人であることが、感動的だ。私の父は、北支で、比較的辛い思いの少ない兵隊さんであったように聞いているが、1915年生まれで、稲木誠と1歳違いだ。直接戦争の話は、あまり聞いていない。結婚する前の母に、戦地の様子を面白おかしく、書いてきたということは、母から聞いている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?