アジア人物史6巻はポスト・モンゴル

前巻で、モンゴルの時代がアジアをダイナミックに展開したことを見た。そして、その後の影響がさまざまな地域で、入り混じりつつ、微妙に異なる文化をもつ国々として現れた。15世紀から16世紀の話である。中国は明の時代。日本は、少し距離を置いた存在になっているようでもある。
最初に登場するのは、イスラム文化のティムール帝国である。ティムール(1336-1405)が、サマルカンド中心に政権を確立していくが、チンギスの子孫を王に擁立したり、チンギス家の女性と結婚したり、モンゴル帝国の権威を引き継いでいる。西はアンカラ、ダマスカス、バクダード、カスピ海の北から、南はヘラート、カンダハルからさらには、インダス川を越えてデリーまで、実に広大な地域までを、騎馬軍団により遠征している。1507年に、130年にわたるティムール朝は滅亡するが、ティムールから5代下ったバーブルが1526年、インドにムガール朝を創設する。(第1章)
元から明に王朝交代が起きた時、高麗から朝鮮への王朝交代があった。初代太祖の李成桂(1335-1408)は、1392年最後の高麗王から禅譲の形で王についた。明から国王と認められず、内紛もあってしばらくは不安定な政権であった。第7代国王世祖(1417-68)は、はなはだ評判が悪いという。1453年首陽大君(後の世祖)は、金宗瑞派が安平大君を擁立して国家を転覆させる陰謀をめぐらせていると言い立てて、兵を動かして金宗瑞らを殺害し、安平大君を江華島に流配にした後に自死に処し、一挙に権力を掌握した。(癸酉靖難)(p.97) 倭人(日本人)と野人(女真人)を王宮で行う朝賀礼と会礼宴に出席させ、朝鮮という「華」を仰ぎ見る「夷」という役割を与えて、自分は中華皇帝を演じたという。(p.102) 儒教を国教とし仏教を弾圧したといわれるが、個人レベルでは、太祖も世祖も仏教に帰依していたという。第4代世宗(1397-1450)は、ハングルを創成し、文化英雄とされている。(第2章)
日本は室町幕府の時代(1338-1573)である。1399年、朝鮮王朝と密接な交流をもつ大内義弘の挙兵「応永の乱」を凌ぎ、第3代足利義満(1358-1408)は、名実ともに日本の覇者となった。(p.147) 北山殿に構築された特徴的な建築物に七重大塔がある。高さ109mのこの塔は、当初、相国寺に建てられ(1399年)、1403年落雷焼失後、移転・再建されたという。(p.149)1402年には、建明使が明の建文帝に受け入れられ、「日本国王」に任ずる返礼の使いを迎えたのも北山殿である。(p.151) 第8代足利義政(1436-90)は、14歳で元服し将軍宣下を受ける。徳政を行い、日明貿易を展開させた。1482年、東山に慈照寺の造営を始めた。1473年息子義尚に将軍職を譲るも全権を移譲せず、義尚は25歳で病没。後継者問題でごたつき、戦国の乱世に突入する。禅宗画家雪舟等楊(1420-1502)は国宝6点を残しているが経歴は不明な点が多いという。応仁の乱のときに、遣明船で渡明している。(第3章)
琉球王国も独立した文化の国としての歴史を持つ。尚巴志(1372-1439)は、山南、中山、山北の三山を統一し、明朝に入貢している。1453年お家騒動で首里城が焼失している。その後に尚泰久(1415-60)が継ぎ、入貢と明への事情説明が行われている。そのころから、日本の禅宗の僧侶が渡来し、琉球の寺院建立や仏教事業に従事していた。1458年6月19日記銘の、琉球の平和と交易を理想とする「万国津梁の鐘」が残っている。(p.202)尚真(1465-1526)は、1477年に13歳で王位につき、「万国津梁の鐘」の世界を体現した。(p.205)まるで英国のビクトリア女王を彷彿とさせるほどだ。(第4章)
南京を首都として、漢民族の明朝を創業し、全国を統一したのが、太祖洪武帝の朱元璋(1328-98)である。貧農に生まれ、波乱に満ちた時代に親王26子、公主16子の42子を設けた。(p.224)元朝最後の皇帝順帝トゴン・テムル(1320ー70)は、明軍に大都を追われ、応昌で崩御した。藍玉(?-1393)は、元をさらに追い詰めることで武功を上げたものの、太祖の39歳の皇太子の急死(1392年4月)により皇太孫の外戚にあたることから将来の不安を取り除く意味もあって、元の王妃を凌辱したなどで恩賞が減じられたりしたあげく、謀反の嫌疑で処刑された。(藍玉の乱)靖難の役では、第2代皇帝建文帝(1377-1402)が敗れ、燕王棣永楽帝(1360-1424)が勝利して帝位についた。(第5章)
明朝による海洋進出においては、鄭和(1371ー1434)が大艦隊を率いての7回にわたる大航海が物語る。雲南省昆明には鄭和の巨大な像があるが、その傍らに父の墓と銘文が残されている。鄭和が後世に残したいと、「ムスリムの家の事績を儒教的解釈で描いているとはいえ、自らの出世を引き合いに出して亡夫を称える文章」(p.286)だという。靖難の役では、鄭和は宦官として燕王に仕えていた。洪武帝は「祖調録」において、高麗、日本、安南など15か国を不征諸夷と定め、子々孫々無益な争いをしないよう戒め、併せて、高麗、琉球、日本、安南、チャンパを藩属国と規定し天子の威徳が及ぶ範囲とした。(p.295)それにしても、鄭和の大航海は、西は、アフリカ東海岸モガディシオの西方、紅海のメッカに及び、インドのカリカット、スマトラのアチェ、ジャワのスラバヤも含む壮大なものである。1414年の航海にあっては、ベンガル国王がアフリカのキリンを永楽帝に献上している。(第6章)
 明の太祖は 礼教秩序構築のため、朱子学の教義に従って施策を実施している。成祖永楽帝は、「四書大全」「五経大全」「性理大全」を編纂させて公定解釈を定めた。これは、科挙の教材としての役割を果たし、思想の硬直化を伴った。今も受験勉強が考える力を削ぐことになることに通じるようにも思う。そのような背景のもとで、王守仁(王陽明)(1472-1528)が登場する。王守仁が理解してきたところによれば、「外物にある理を知識として獲得するのが朱子学の人間修養法だったが、理とは自分の心の中にあるものだと気づいた」のである。(p.348)王守仁に続く者として、王畿(1498-1583)ら、日本では、滋賀の中江藤樹(1608-48)、倉敷の三島中洲(1830-1919)、庄内出身の大川周明(1886-1957)まで、東アジアの陽明学ということで紹介している。(第7章)
15世紀も後半になると、西アジアでは、マルムーク朝、オスマン朝、白羊朝が拮抗勢力になっていた。メフメト2世(1432-82)は、コンスタンティノープルを征服し、オスマン朝を帝国にした。1453年5月29日の総攻撃により、ビザンツの防衛軍を突破してオスマン軍が城内に入った。ビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世は戦死。メフメト2世は聖ソフィア大聖堂に入りビザンツの人々の安全を保障したという。(p.392) 次いでセルビアを征服、1461年にはクリミアを始めとする黒海沿岸を征服、さらにボスニア、アルバニア、中央アナトリアを支配域を広げた。(第8章)
ティムール朝が滅んだ後の激動の戦乱の中から、バーブル(1483-1530)はムガル朝を建てた。生まれはフェルガーナ、ティムール朝の王子である。11歳の時の父の事故死により、サマルカンドの伯父とタシュケントの母方の叔父から攻撃を受けるも、何とか切り抜けた。1504年には、ウズベクの来襲によりフェルガーナを落ち延び、アフガニスタンのカーブルを征服してしばし落ち着いた。インド遠征を繰り返す後、1526年の第6次遠征で、火砲を用いてデリーの君主スルタン・イブラーヒームの軍を粉砕し、デリー、アーグラを征服、ムガル朝を樹立した。文人君主としてのバーブルは回想録「バーブル・ナーマ」に残されている。チャガタイ語で書かれたものであるが、今や多くの国の言語に翻訳されており、人間的魅力があふれているという。20歳の息子フマーユーン(1508-56)に、君主の務めとしての心構えを諭す手紙が紹介されている。(p.466) 5歳年上の姉ハンザーダ・ベギム、異母妹、親族の女性たちについての運命についても、ウズベクの敵地(サマルカンドやタシュケント)での暮しなども含めて、歴史に名を残した女性が多く現れるという。(p.478)わが国でも戦国時代の女性の立場、役割は同様であったことが想像される。(第9章)
明代は、秦・漢などの古代帝国の理念のもとで設計されて始まった。モンゴル繁栄の後に、交易を支える銀が不足し、朝貢のメカニズムで貿易統制をねらったが、明末清初期になって、古代から中世に至ったという分析がされている。そこに重要な役割を果たしたのが、「倭寇」のリーダー王直(?-1560)と内陸のアルタン・ハーン(1507-82)である。五島列島福江島に明人堂という中国風の石造りの祠があって、民間貿易の先駆者としての王直を偲ぶものという。売国奴か民間貿易の先駆者か、その評価は両極端であるともいう。(p.516)塩商への道が始まりであるが、裏の世界も知る。ポルトガルの経済振興は、改宗キリスト教徒コンベルソを含むシナ海域での密貿易商人が活躍する状況を生んだ。その中で王直は、五島に来航、「五峯」の号を名乗って活躍する。1543年には、種子島より前に、五島や平戸に鉄砲は伝わっていたという。1548年に密貿易団が明軍に急襲され掃討された。それが逆に密貿易商人を武装化し、陳思盻一派と王直一派の争いとなり、陳が滅ぼされて王直が覇者となった。明にとっては、日本に拠点を置く倭寇ということになる。一方で北虜・蛮族の首領で活躍したのがアルタン・ハーンである。モンゴル語の写本「アルタン・ハーン伝」によると、仏教を深く信仰していた人物として描かれている。モンゴル中興のダヤン・ハーンの孫として、フビライ・ハーンを目指して統合を成し遂げた。ダライ・ラマに帰依し、アルタンに灌頂を授けるように求めたという。オアシス都市からもたらされた貢物の一部は、アルタンから明朝への朝貢品に含められ、また明朝の物産はオアシス都市に運ばれたと考えられている。(第10章)
東南アジアにおける王国としてのまとまりは、仏教の原点に近づけ、住民の中に浸透させることで権力の確立をはかる形で進んだ。上座部仏教の世界観には社会進化論的な考え方はなく、地上のこの世とは、個々に前世を背負った一人ひとりの衆生の集まり、その織りなす世界ということになる。(p.575) 拡大再生産を肯定する資本主義が浸透し始めると、そういうわけに行かなくなる。ダンマゼーディー(1417-92)は平民の子であったがビルマ南部のペグーの国王となる。スリランカの大寺派系上座部仏教イデオロギーに基づく政治体制の礎を確立した。ペグーが内陸部と海外との交易拠点でもあり、経済的にも政治的にも安定していたことが、宗教改革を実施できたことのもとにあると分析されている。ダンマゼーディーは、晩年、自分が僧籍を離れて国王になったこと、盟友であったダンマニャーナを殺害することになったこと、長男のミン・イエ・チョーズワを心ならずも死にいたらしめたこと、町や村に住む多くの僧侶を還俗させたことを悔やみ、自責の念と不安にさいなまれていたという。(p.597) ラームカムヘーン(?-1317)はタイのスコータイ朝第3代で、王碑文に「水に魚あり、田に米あり」という生き生きとしたスコタイ王国が描かれている。ラーマ4世(1804-68)は、ラタナコーン朝シャムの第4代国王である。ペグー出身の僧スメーターチャンに出会い、律蔵を教えられ現前の仏教の変革運動を行った。シソワット(1840-1927)は、カンボジアの第2王子として生まれ、幼少期はタイの宮廷で人質として過ごし、バンコックのボーウォーニウェート寺で出家、兄の戴冠に反乱が起き、それを平定して、王位についた。(第11章)
東南アジアは、イスラムの洗礼も受けている。ムザッファル・シャー(?-1459)は、マレー半島ムラカの第4代国王である。ムスリム商人とヒンドゥー商人との抗争の中で王位を継承し、アユタヤ朝からの独立とイスラーム受容問題の2つの宿願を達成した。スマトラ島でイスラム王国が成立するにあたっての9人の聖者がワリ・ソンゴと呼ばれている。(第12章)
ベトナムは文化的にも中国に近く、儒教的規範が多く残っている。黎聖宗(レータイントン)(1442-97)は黎朝第5代皇帝である。官僚制度としては、国家レベルでは儒教化したものの、民衆レベルでどこまで根付いているかは諸説あるという。(第13章)
フィリピンは、人口の90%がキリスト教徒で80%はカソリックという。スペインのフィリピン領有は、1529年のサラゴサ条約によりポルトガルとの間で定まったようである。1571年にはマニラ市が植民地首府となり、アカプルコとの間で、マニラ・ガレオン貿易の航路として確立した。修道会の果たした役割は大きく、また日本布教の拠点ともなった。ペドロ・バウティスタ・ブラスケス(1542-97)は、フランシスコ会の司祭であり、1593年特派大使として京都での布教も行っている。1597年2月5日に、土佐浦戸に漂着したガレオン船の積荷の扱いで、秀吉の命により磔刑に処せられた。日本26聖人のひとりとなった。ロレンソ・ルイス(1600頃-37)は、中国人カトリック教徒の父とマニラの地元女性との間に生まれた中国系メスティーソであった。密かに禁教下の日本宣教を目指すドミニコ会の舟で日本に渡っている。琉球列島に到着の後、露見して長崎に移送され、1637年9月29日穴掘り刑で絶命した。ロレンソは1987年教皇ヨハネ・パウルス2世によりローマで列福され、フィリピン人最初の聖人となった。(第14章)
15、16世紀のアジアにおける日本の特殊な状況が浮かんでくる。また、政治と宗教の強い結びつき、土地へのこだわり、肉親の情など、改めて現代と変わらぬ人間社会の営みが分かりやすく描かれているという思いを新たにした。平和はつかの間であり、経済的安定もたまたまその時代に生まれたことで恩恵にあずかっているということだ。


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