アジア人物史8 アジアのかたちの完成 主要人物の覚え

シリーズ2冊目は、17、18世紀から19世紀のアジアである。
第1章は琉球王国で、まずは羽地朝秀(1617-75)を取り上げている。最初の琉球正史「中山世鑑」を王命により表した。摂政に就任し数々の国家改革を実施したという。「羽地仕置」に「諸間切百姓が公役を嫌がり、首里・那覇・泊の人びとに金を渡してその家の使用人になって町へ移住しているため、田舎では百姓が減少し、村が疲弊している」との記載があるというが、いつの時代にも変わらぬ都市問題だ。蔡温(1682-1761)が後を引きついでいる。
第2章は江戸時代の日朝関係を描き、雨森芳洲(1668-1755)を紹介する。対馬藩に召し抱えられて朝鮮通行・貿易にかかわった。鎖国をする日本の外交面や貿易において役割を果たしている。吉宗に献上された朝鮮人参は小石川薬草園で栽培されたという。唐音、朝鮮語にも通じ、隠居後も儒学者として弟子を育てている。80歳のときの随筆で儒教・仏教・道教は根底部分で同じだとする三教一致を説いている。
第3章は江戸時代中期の天下太平の統治者たちを紹介。徳川綱吉(1646-1709)は生類憐みの令で評判がよくないが、農政改革に力を注ぎ多くの代官を処罰したり、柳沢保明(後に吉保)ら側用人政治で財政改革も行った。徳川吉宗(1684-1751)は、二人の兄が早く死に22歳で紀伊和歌山の藩主となり、七代家継が8歳で病死の後、将軍を継いだ。新田開発を奨励し年貢増による財政再建をねらった。吉宗の側近として田沼意次(1719-88)は、表の老中と奥の側用人を兼帯して権力を握った。貨幣政策・長崎貿易改革の他にも、印旛沼干拓や蝦夷地開発を試みている。
第4章は徂徠学の成立と後世への影響ということで、荻生徂徠(1666-1728)とその思想の流れを紹介している。町医者の次男として生まれ、5歳にして字を識るのが楽しいと答えたという。綱吉の「易」の講釈の折、当時30歳の徂徠だけが不得心の様子に綱吉が気づき、近くに召して彼の意見を聞き、感心して手ずから印籠を賜ったという。1727年「学則」を公刊したというが、徂徠学の方法論の要約であり、デカルトの「方法序説」に匹敵するものという。聖人は「窮理尽性」によって天地自然を観察して「天地の道理」や物がもつ生活に有用な性質を発見し、また人の本性や心理的傾向性を明らかにしたという。「智・仁・勇」のような治者向けの大徳というが、これは吉澤先生仕込みの「節度・和・気魄」に通じるものとも言えるか。著者(平石直明)は「徂徠学の今日的意義」として「我々は言語、制度、風俗など自己を取りまく二次的環境を対象化し、望ましい文明の創造に向かう原点を確保できるはずだ」という。最大の問題は「奢侈化」という自然傾向の抑止であり、その優れた方法が礼楽とされる。日本思想史上、不滅の古典といってよいという。その後、伊東仁斎(1670-1736)、安藤昌益(1703-62)、富永仲基(1715-46)、本居宣長(1730-1801)と並べている。
第5章は朝鮮実学である。朝鮮の朱子学については、第7巻の第8章で取り上げられているがその後の実学を語る。李瀷(1681-1764)は朱子学を根幹としながらも、星湖西学を説く。天動説が述べられているという。最大の関心は、疲弊した農村の再建にあるというが、これもまたいつの世にも共通の社会的課題だ。洪大容(1731-83)も実学として西洋の先進的文物学術を積極的に学ぶ姿勢があった。三角法や地球自転説も説いたという。価値相対主義的社会理想に至った。
第6章は清朝全盛期を扱い、乾隆帝(1711-99)による国家全盛を検証する。それでも後半は内外ともに問題が生じていた。1768年にビルマ侵攻の失敗である。アメリカのベトナム戦争、ロシアのウクライナ戦争に例えられるかもしれない。生涯6度の江南巡行を行い、「山川の佳秀、民物の豊美」に満足し、70歳、80歳と自讃の調子を強めたという。
第7章は、東南アジアである。1771年のタイソンの乱が清朝も悩ます、その動乱の指導者が「ベトナムのナポレオン」と称される阮恵(グエンフエ)(1753-92)である。光中帝として清朝と関係を保つ時期もあったが、王朝の創始者阮福瑛(グエンフォックアイン)(1762-1820)の宿敵という点で阮朝の逆賊とも位置付けられている。阮福瑛は1802年北部ベトナムに進撃しベトナム統一を果たす。1794年石巻から江戸へ航行中の大乗丸が暴風で遭難し、3か月漂流してベトナム南部に漂着したがサイゴンで保護され1795年に無事長崎まで帰還した話が残っている。なお、ベトナムの呼称は、嘉隆帝となった阮福瑛が清朝との交渉の中で合意した「越南」に由来するといわれる。ビルマではコンバウン朝、シャムはラタナコーシン朝が並び立ち、さらに、カンボジア、ラオスでも王国が独立の維持のための戦いが続けられた。
第8章は18世紀の南インド。マイソール王国のハイダル・アリー(1720-82)。部隊長から軍人として栄達を遂げ、最後は王国に君臨した。戦場で大量の金貨を手に入れることができという伝説が伝えられているが、建国神話にもあったインドらしさを伝えている。北のマラータ王国やイギリスとの全面対決にも直面している。第2次マイソール戦争では、フランスの援軍を受けてイギリスと対立した。イギリスの植民地行政官ベンガル総督のウォレン・へースティングス(1732-1818)が、フランスに支援されたハイダル・アリーと戦っていたとき、イギリスはフランスの支援するアメリカ独立戦争で敗北していたことになる。ハイダルは読み書きはできなかったが多言語に長けていて人たらしでもあり、また後宮には700人の美女を集めていたともいう。
第9章は、インドにおけるイギリス統治時代を描く。イギリスの支配というものの、実質は一私企業の東インド会社が特権を握っていただけである。宗教・社会改革運動の時代でもあり、ラームモーハン・ローイ(1774-1833)が運動家として知られる。カルカッタで金融業を営み、東インド会社ともかかわり、最後はイギリスに滞在した。ヒンドゥー教の改革、ジャーナリストとして教育・政治への関わりもあった。「遭遇したどの思想にも与し、したがってそのいずれにも属さない、普遍的で自由な思想を抱いていた」とも「来たる近代にインドがいかにあるべきかを見据える、将来志向型の思想家だった」とも称される。ケーシャブチャンドラ・セーン(1838-84)は、もう一人の宗教・社会改革運動家で、1866年インド・ブラフモ・サマージを結成しインドの進むべき道を示した。全インドを体現する、近代最初の思想家という。
第10章は近代オスマン帝国である。ミドハト・パシャ(1822-84)はクリミア戦争後の激動の中を生きた。オスマン近代の改革派政治家であったが、1881年ユルドゥズ宮殿の庭の天幕の法廷で弑逆事件の首謀者として、幼馴染のジェヴデト・パシャらに裁かれた。かつてミドハト・パシャに薫陶を受けたジャーナリストのアフメト・ミドハトも不利な報道や証言をしたとされる。ドナウ川が黒海に注ぐ地域で知事を務め、ティグリス・ユーフラテス川がペルシャ湾に注ぐバクダードでも知事として改革実践をしている。王位継承やら、憲法制定などの大きな転換の時代、裁判の結果は、流刑に処せられメッカの近くターイフで死去している。
第11章は中央アジアの19世紀である。チンギス・カンの末裔たちが活躍した時代で、ロシアの統治が強くなる中で、どのように独立を保持するか戦略や思惑が渦巻いた。カザフ・ハン国の英雄はケネサル・スルタン(1802-47)。カザフ人のワリハノフ(1835-65)は親ロシアの夭逝した英才で、オムスクで刑務所から出所したばかりのドストエフスキー(1821-81)と知己を得る。コーカンド・ハン国では、タシュケントがロシア軍に陥落し1876年にロシアに併合されフェルガナ州となっているが、その間の激動をターイブ(1830-1905)は文官でありヤルカンドの総督を務めたりして時代の証人となっている。ダーニシュ(1827-97)はブハラ・ハン国の星と言われ、ロシアに従属することになったものの、反骨の知識人として後世に評価されている。他にもクリミヤで活躍したガスプリンスキー(1851-1914)やフェルガナのドゥクチ・イシャーン(1853-98)が登場するが、ウズベキスタンは、箕輪氏の世話で訪れていて、ブハラ、ヒヴァ、フェルガナと名前を聞いてイメージが浮かぶだけに、歴史の距離が近く感じられる。
第12章では、容閎(1828-1912)なる人物が近代中国の幕開けということで取り上げられている。曽国藩(1811-72)の幕僚として留学事業を立ち上げた。日清戦争後に鉄道建設計画に従事したり、義和団事件の混乱の後、日本では孫文に会っている。1902年からはアメリカに住み、1912年中華民国成立に呼ばれたが叶わなかった。
第13章は西太后(1835-1908)である。稀代の悪女と言われるが皇后として王朝末期の政治改革を支援した面は評価される。李鴻章や袁世凱(1859-1916)を抜擢したことも正しい判断だった。袁世凱は義和団弾圧と科挙廃止を実現するが、失脚、復権を経て、辛亥革命により中華民国初代大統領として強権政治を進めた。そして清朝九代は西皇太后の甥の光緒帝(1871-1908)、3歳で即位した清朝最後の皇帝、宣統帝(1906-67)が、溥儀であり、満州国皇帝にもなって、崩壊後はハバロフスクで抑留生活も送るが、中華人民共和国で1959年特赦を得て平民となり、1967年病没している。
18世紀は随分昔であるが、19世紀となると、現在とのつながりが感じられる。あまり、知らないアジアの戦乱であり、日本の平和であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?