宋代の文天祥を知る

30代のころであったろう。吉川英治の私本太平記のほとんど冒頭で、ゆったりと淀川を下る船の中で若き足利尊氏が語る文天祥の詩が気に入っており、書いたものを名刺入れに居れ、いろんな人にも見せた。
忙裏山看我 閑中我看山 相似不相似 忙総不及閑 
かつて酒の席で、書をやっているという太田統士氏(故人)に熱く語ったら、半紙に何枚も書いて送ってくれたので、その中の気に入ったものを額装して流山の青田庵に掛けてある。氏からは最後の一節を書いて展覧会にも出したという報告を頂いたりもした。
その文天祥については、私も含めてあまり知らない人が多いのだが、毎月送ってくれる東大出版会の月刊UP5月号に、小島毅が「北京で処刑された民族英雄」というタイトルで、文天祥のことを紹介していた。さらに、1966年に書かれた梅原郁の「文天祥」が文庫本(ちくま学芸文庫)で復活し、今年の5月に刊行されていると知って、読んだのである。
残念ながら、上記の詩は見つからず、どういう状況で詠まれたのかはわからなかったが、宋の時代の最後を飾る人物で、中華民国の蒋介石にも、さらには中華人民共和国でも忠君の雄とされているという。
さらに、驚いたことには、戦前の日本では小学校から高校まで、教科書にも取り上げられて、忠君の士として誰もが知っている人物だったのだという。宋は元に滅ぼされるわけであるが、その何度も繰り返される戦いの中では、日本の場合の義経のようなイメージすら浮かんだ。
最後は元に捕らえられ、長く暗い牢屋に居て、死を待つ身で、50代の身体はぼろぼろになりながらも、精神はさらに強く、肉親を思い、国を思う心を「正気の歌」に詠みあげている。それは、激動の幕末期、藤田東湖や吉田松陰によって、同様の「正気の歌」を作らせている。儒教の精神を体現した人間として、明治以来、教育に使われたというのだが、逆にそれが、文天祥の実像を歪めているというのが、歴史家の小島や梅原の言うところだ。これだけの歴史上の人物に触れずに、中国の歴史を語ることにならないともいう。
鎌倉時代に元の2度にわたる侵略を、幸いにはねのけることのできた日本であるが、中国国内で、めちゃくちゃ頭の良い文天祥という男が行政の長としても、戦さの勇者としても、家族を思う人としても、素晴らしい詩を多く残していたのだった。杜甫がお気に入りだったという。
吉川英治がどこで見つけたのかはわからないが、「閑中我看山」の味わいを、さらに深めることができたように思う。

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