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徳富蘇峰 人と時代(和田守著)に見る蘇峰の思想

徳富蘇峰 人と時代 和田守著(萌書房)のメモと読後感。
2年近く前に芦花公園に徳富蘆花(1968-1927)の旧居を訪ね、蘆花の小説を読んだ。その後に近くでもあることから、散歩がてら蘇峰(1863-1957)の山王草堂を訪ねた。趣のある庭を抜けて、新装なった旧居に入ると、大日本史を執筆した様子も残されていた。それ以来、兄弟の思想の違いというこが気になっていた。
和田守(1940-2019)が蘇峰の思想を追跡し、出版社に残された遺構が、伊藤彌彦(1941-)の編集で本になったというので、読んで見た。大筋としては、平民主義、自由主義を掲げていた明治の思想家が、日清戦争を機に大日本帝国の覇権主義を唱えるようになったということなのである。誰しも年を重ねると思想的転換が起きることはあるとしても、なぜそのようになるのか?「人民のための」言動や活発な活動の断片は知ることができたものの、「なぜ?」については手がかりもみつからない。弟の蘆花のことはほとんど記されていないが、反発の増幅のようなことが心のうちにあったのだろうかと、かってに想像する。
3部構成になっており、第1部4章は「評伝 徳富蘇峰」
第1章は新聞記者への立志と思想形成。蘇峰は、熊本の豪農の第5子の長男猪一郎として生まれている。父一敬は横井小楠の実学党派を資金面で支援していたという。勝海舟に「おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ。」と言わせた。(p.15)三姉の音羽は富岡製糸工場に技術習得のために出されている。(p.17)熊本洋学校時代には、18歳で、キリスト教宣布による人民の啓蒙に身をささげると「花岡山の盟約」に署名している。(p.20)やがて熊本バンドの活動として内村鑑三の札幌バンドとともに日本プロテスタントの源流の一つという。同志社英学校時代に西南戦争があり、後年「政治家と学者の中間を歩いてみたい。新聞記者いふが即ち予の本分」と書いている。(p.23)学園紛争で退学し、熊本に戻ってからは板垣らの自由民権運動に参加する。大江義塾では政治、経済学、英国憲法、米国革命史などを講義している。「人類が各人の利益と幸福を維持発展させるためにはいかなる社会秩序を形成したらよいのか」(p.53)との問題意識のもと、国際秩序をも思考していた。若くして活動家である。
第2章平民主義の唱道では、「将来之日本」を若き日の思想形成の総決算として書き、中央論壇へ進出する。1887年に雑誌「国民之友」を創刊すると、1年後には1万部を売り上げるようになる。キーワードとしての見出し「兼業の政治家」「田舎紳士への期待」「地方自治の重視」などが挙げられている。教育勅語への批判は教育の自由を掲げ、勅語奉読や叩頭礼拝の強権的偽善性を告発し、教育の世界への国家統制の不当性を糾弾している。(p.95)「国民新聞」も発刊する。ジャーナリストとして面目躍如といったところだ。1988年には「文学会」を設立し、文学界にも新風を吹き込んでいる。中江兆民、坪内逍遥、森鴎外、二葉亭四迷、尾崎紅葉、幸田露伴、徳富蘆花ら文壇有力者を網羅していたという。1993年には「吉田松陰」を刊行、集権的な統一国家の誕生を促した国民的精神を顕彰している。そして松陰をイタリア統一運動のマッチニと対照している。「独立、自由、平等、友愛、進歩を持って記号となせり・・・」これが第二の維新というわけである。(p.108)
第3章で帝国主義への変容が語られる。初期議会では軍備費増強に一貫して反対していた立憲政治論の立場から、日清戦争の前後で大きく転換し、「武断的国権拡張論を手厳しく糾弾した平民主義蘇峰の姿が完全に消え失せた。」(p.112)そして「平和の担保は唯兵備の充実にあるのみ、一日の兵備を怠るは一日の平和を危うくする所以なるを知らずや」(p.113)という。大日本膨張の論理が帝国主義の洗礼により正当化されてしまった。
第4章は国家的平民主義。平民主義と唱えていたことに危機感をもち、普選論を熱唱しつつも、皇室中心主義を基軸とした東洋自治論=アジア・モンロー主義を提唱するようになった。
第Ⅱ部は欧米巡遊、社会と国家の新結合と題し、5章からなる。1896年5月から翌年6月まで欧米を訪問、欧米におけるロシアの外交的位置付けを日本の外交政策においてみて、強い日本を夢見て、帝国主義へと傾斜して行ったように読める。清国は日本に負けたとはいえ、東南アジアでの中国人の隆盛を見て「将来の競争は国と国との競争のみならで、亦た人種と人種との競争に可有之候。兵戦のみならで、商戦の勝敗も国運の隆替には大関係可有之候。」(p.148)と書いている。ロシアではトルストイを訪問している。「少数の智者が多数の愚者を勝手次第に使役する間は、露国は強かるべく候」(p.167)とあるが、まさに、100年経っても状況は変わっていない。
第2章は国民新聞と国民教育奨励会である。1890年創刊の「国民新聞」の1万号記念事業として国民教育奨励会を設立して、特に地方の小学校教員の育成を図った。文部行政とは一線を画し、自由教育運動の推進、創造的授業法の開発などを謳っている。学界、官界、実業界の幅広い協力支援も受けている。女教員への支援もあって大正デモクラシーの中での画期的な試みであった。
第3章は青山会館の設立であるが、さらに幅広く文化・芸術、地方状況者、海外人士のために、私財をなげうち、自らの住まいの土地を提供して3300㎡の立派な施設を、地鎮祭直後の関東大震災の打撃も受けながら、1925年に完成させている。これも、国の支援も受けた空前の一大事業である。設計は岡田信一郎。この時期、後継者として期待していた次男の萬熊(32歳)をチフスで亡くしている。青山会館建設のため、本人は大森の山王草堂に越している。
第4章は国民新聞引退と蘇峰会の設立で、1930年には、皇室中心主義の宣揚を目的として「蘇峰会」が設立された。国民新聞は関東大震災による社屋倒壊がきっかけとなり経営的にもうまく行かなくなり引退することとなった。その後は、大阪毎日新聞、東京日日新聞が発信の舞台となった。日中戦争に対しても精神高揚を期し、1936年11月、全国蘇峰会大会決議としてヒトラー総統に深厚なる敬意を表する緊急動議の決議が打電されている。(p.287)
第5章は徳富蘇峰という存在。護憲の立場にあったはずが、護憲運動の高揚を帝国主義への危機感と捉えたのであった。吉野作造からは「現代の社会ならびに現代の青年に関する適当な理解の欠如、国家的奉公の議論は時代錯誤と論難されている。(p.300) 自然主義作家の岩野泡鳴も「思想上は過去の人」と断じ「個人を国家富強の手段とみなす『手段的、忠愛主義』」と糾弾している。(p.301) 一方で、新自由主義の提唱であったり、地方自治の推進の力説であったりするのも興味深い。(p.307)
第Ⅲ部思想史研究の視点は、第1章が2004年の和田の論文で、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰、永井柳太郎から石橋湛山までのアジア認識を吟味したもの。第2章は2009年刊のもので和田の思想史研究遍歴をまとめたもの。
あとがきには、和田愛による夫の守没(2019年4月)後の本書刊行までのいきさつなどが興味深く記されている。


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