見出し画像

構造技術者渡辺邦夫の追悼

昨日、劉さんから、4月9日に亡くなられたとのメールをいただいた。いままでだと、亡くなった翌日くらいまでには、学会とか友人経由で、訃報が回り、通夜、告別式に駆け付けるということが普通であったのに、仲間でそろって追悼することもかなわない状況が、また悲しい。2年前7月の沼津に、構造仲間の岡本さんに呼んでもらって、ご夫妻と歓談したことを思い出す。
今までのお付き合いの断片が、ファイルにあって振り返っている。新しい構造を生み出すことに対する懸命な精神が、いつもモノづくり職人を支えていたという印象である。作日も、A-Forumでシドニーオペラハウスをテーマに討論の場を持ったが、そこでの建築家山本想太郎氏のキーワードが「専門と総合」であった。Ove Arupも当然ながら、構造と空間構成の難しいテーマに果敢に挑戦してオペラハウスは生まれたのだった。
渡辺邦夫はstructureに「専門分化と統合の難しさ」と題して書いている(1996年10月号)。私と風の問題でいろいろやりとりした経緯も述べられた後に、どのようなニュアンスだったか自分で定かではないが、私が「ガラスの構造を私だったら採用しないし、その真意が不明ですね」と言ったというのだ。そして、「こういう意見は僕(渡辺)にとっては極めて不愉快で、不気味で、貴重なものである」とある。自分としても、実現するために相談に呼ばれたことは承知の上での議論を、あたかもただ「頭の固い学者」というように評されて、極めて不愉快で、しかもすでに発表されてしまったことを、抗議したことがある。
さらに遡って、学会の設計荷重のシンポジウムで、氏が手を挙げて「規準とか法律で荷重を決めてもらう必要はない。自分たち構造をやっている者が決められるのだ」という発言があり「そんなことのできる人が何人いると思うのですか?」と言って、そのときも不愉快にさせたことを覚えている。お互いの誤解がかなり解けて、1998年の構法研究会報N0.31では二人の対談をさせてもらった。法律の意味やあり方について、必ずしも同じ意見に達したわけではないけれど、安全を構造技術者が真剣に考えて設計を実現する、そのために法律に頼るということはしない、そんなところを強く感じた思いが蘇る。
2003年には、構造設計をした朱鷺メッセの歩道橋の崩落という事故があり、ちょうど建築基本法制定準備会発足の時でもあり、構造安全と法律の関係を議論する良いタイミングでもあった。その後、裁判となり、仲間に呼びかけて裁判費用の支援の旗を振った。事故の要因はさまざまなことが積み重なっている。それを、当事者(建築主)が自分たちの調査報告書だけをよりどころに、設計者を訴えている構図そのものに問題があったし、学会も協会も、動かなったこともあって、支援させていただいた。10年間裁判を争って無罪になっても、その代償はあまりに大きい。真相は、当事者が真の原因を追究するという姿勢を示さなかったことから、わからないままになってしまったことは、今も残念である。
それぞれの作品については、本も出されているし、今も劉さんの編集でエッセンスを表現した70回を超えるyoutube発信がされていて、構造技術者としての歴史は刻まれている。これから構造設計をやろうという人には、どの構造も大いに参考となる内容である。真剣に建築構造と向き合って頑張り続けられたことに敬意を表する。改めて、東京フォーラムのガラスのキャノピーを訪れて、氏を悼むこととする。合掌。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?