金田茉莉さんの「かくされてきた戦争孤児」(講談社)を読む

礼子が今週初めに女子会でいただいてきた。ちょうど、先週は、井上ひさしの芝居「化粧2題」を新宿で見て、ひとり芝居のセリフが気になり、アマゾンで「井上ひさし全芝居(その6)」を手に入れて、読み、「父と暮らせば」も読んだタイミングで、出合った。親を亡くすことのいろんな意味を考えさせる。
母も20代で、岐阜市で空襲にあって焼け出されている。東京大空襲は被災者300万人、死者12万人というから、想像を絶する。その想像の先に、戦災孤児がいたことを、いままであまり考えたこともなかった。馬込第三小学校では、富山に集団疎開した話を先輩から聞いた。同窓会で記念誌に寄稿してもらったころもある。幸い、このあたりは、空襲で焼け野原にはならなかったようである。しかし、すぐ隣の荏原や大森は、そして江東、深川あたり下町一帯は、それこそ関東大震災の比でははなかったと想像する。
しかも、東京の小学生たちは、集団疎開で地方にいて、家族が死んだことも知らされずにいた。急に手紙が来なくなってさみしい思いをした。また、小学6年生は3月10日の空襲の前に、東京に戻されたのだという。もちろん、多くの子がなくなった。都会の小学生の疎開は、国の決めたことだから、言ってみれば、未来の兵隊さんとしての家族と別れての動員と同じ。
120万人ともいわれる戦時の小学生の疎開。それも、孤児が生まれる前の東京大空襲前と、孤児が生まれた大空襲後の2期にわたって事情が異なる。おそらくは、12万人ほどの戦争孤児が、疎開から引き取り手もなく、すべて終了するのは終戦から1年半後、昭和22年の3月という。その後も、国の立場は、戦災孤児は、1000人とか3000人とかの公式発言が残っていて、わずかな施設を建てたのみ。実態とかけ離れた数字だ。
金田さんも、戦後40年、口にできなかったと言う。それを著書にしたり、発言するうちに、戦災孤児を訪ね、疎開先や孤児を集めた寺などで聞き取りをして、80歳を過ぎて、この本がまとまったという。今も多くの声に出せないでいる人がいる。
日本政府も米国の占領下だったこともあり、臭いものにはふたで処理するしかなかったようだが、公の記録がほとんどない。国の資金も食料も満足にない戦後すぐの悲惨さは、想像に難くない。孤児たちも多くは、親類縁者にもらわれていくことで、国や管理者は自分の負担を減らした。実態は、人身売買であったり、奴隷的扱いであったりして、逃げ出す子は後をたたず、浮浪児の存在としてすぐには、社会から消えはしなかった。
昭和22年に生まれ、26年に東京に出て、そんな状況がおおむね落ち着いたのだろう。今日まで、戦争の悲惨さや非道さはわかるが、孤児の立場を想像することはほとんどなかった。ギリシア時代、ローマ時代、我が国の戦国時代、現在のアフガニスタン、みな同じことを繰り返して来たと思う。
こういう歴史は、我が国の、つらいけれど実際にあった歴史として、子供たちの教科書にも記して伝える必要があろう。国としての責務でもある。東京のどこの小学校にも、集団疎開の記録もないし、戦災孤児の慰霊碑すらないのだとあった。

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