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バッドターニングポイント1-2

私は幼い頃から、物語や絵を描く事が大好きで、
小学校のノートの余白は絵だらけで、ノートの提出があると慌てて消しゴムで消した。
漫画と出会ってからは、ノートに何冊も鉛筆で描いた。物語が浮かんで浮かんでしょうがなかった。
いいセリフを思いつくと、すぐにメモしたりして。息するようにそうしていた。

親に頼み込んで、Gペンやケント紙、スクリーントーンなどを揃えて、応募すると大賞や佳作などの下に名前だけが載った。名前が載らない時はなかった。
親に言っても、反応がなかったので、出せば名前が載るものだと思っていた。20歳くらいまで、やっていただろうか。漫画家になるという必死な思いというより、もう浮かんでくる物語を描きたくて描きたくて、垢抜けた絵を描きたくて描きたくて身体が勝手に描いていた。

とにかく、いつも名前が載った。あとから聞くと名前だけでも載るのは凄い事だったらしい。

そういった机に向かうだけの時間の他に、私はクラブ遊びやライブ、最先端の流行りものやファッションが大好きで、外なる活動も必要な人間だったので、ファッションの道に進み、DCブランド最盛期にバブルの申し子として、東京を満喫していた。

最先端のクラブや店、歌舞伎町や2丁目遊び、展示やファッションショー、スノッブな遊びなど、本当にのめり込み楽しかった。
ただ学業は、パターン制作や縫製など、向いていない部分もあり完全にのめり込む事ができずにいた。自分のブランドや宣伝方法を考える事、コピーライトは本当に大好きだった。

なので休学をして、バイトしながらコピーライティングの学校にも行くつもりだった。むしろ行きたくて胸が躍った。一回何が本当にやりたい事なのか、見つめ直したかった。

しかし、前述したとおり、その話をすると母は激怒して、進学するしかなかった。
不本意な形の進学だった。

バイトもしたが、専門学校の課題は地獄の量だ。課題を出すには布、紙、素材、絵の具、たくさんのお金がかかる。カラオケの夜のバイトして寝過ごしタクシー代に消えた事も。
挙句、キャバレー(キャバクラではない)のバイトの源氏名の名詞を家に落として母に笑われた事もある。「○○だってー、あはは」と。
これは今でも腹が立つ。
自分の年齢より上の人と話す事が苦手な私がどんなに頑張っていたか、知ってんのか!

ドレーピングの授業のトワルが買えなかったり、作品提出の素材が買えなかったりと、だんだん授業中は寝たり、午後から少し行ったり、せっかく上がった最終学年も授業を受ける気力もなくなっていた。友人はたくさんいたが、お金がなくてそうなっているとは言えなかった。
親が相談に乗ってくれた事がなかったので、気にかけて声をかけてくれる先生にも、大丈夫ですとしか言えなかった。

そんな日々の中、友人たちと一緒に帰るタイミングを外して(みんなと帰りたくなかったのかも)、一人廊下を歩いてると、マイペースな「てっちゃん」という女の子がいて、声をかけると、これからビデオセンターっていうところに行くんだ。ビデオを見ていろいろ学べるんだよ、と言われた。

何故かすごく惹かれて、連れて行ってと言ったら、今日は他の人と約束があるから、今度行こうね、と言われた。


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